立ち上がった姿は、肩をそびやかし肱《ひじ》を張ったボクサーの身構えそっくりである。そうして絶えずその立ち上がった半身を左右にねじ曲げて敵のすきをねらう身ぶりまでが人間そのままである。これはもちろん人間のまねをしているのではない、人間も蛇《へび》のまねをしているのではない。ただ普遍な適用性をもつ力学が無意識に合目的に応用されているだけであろうと思われる。「自然の設計」に機械的原理の応用されている一例としておもしろい見ものである。
 ガラガラ蛇が横ばいをするのも奇妙である。普通の蛇ではこんな芸当はできないのではないかと思う。これができるとできないとで決闘の際に大きなハンディキャップの開きがありそうである。運動の「自由度」が一つ増すからである。
 ペリカンのひながよちよち歩いては転倒する光景は滑稽《こっけい》でもあり可憐《かれん》でもある。鳥でも獣でも人間でも子供にはやはり子供らしい共通の動作のあることが、いつもこの種類の映画で観察される。たよりない幼いものに対する愛憐《あいれん》の情の源泉がやはり本能的なものだということが、よくのみ込めるような気がする。
 こういう映画はいくらあっても決して有り過ぎる心配のないものであろう。編集の巧拙などはほとんど問題にしなくてもよいかと思われる。

     十五 吼えろヴォルガ

 「燃え上がるヴォルガ」(俗名、吼《ほ》えろヴォルガ)を見た。映画はそれほどおもしろいとは思わなかったが、その中でトロイカの御者の歌う民謡と、営舎の中の群集の男声合唱とを実に美しいと思った。もっと聞きたいと思うところで容赦なく歌は終わってしまう。
 「ハイデルベルヒの学生歌」(俗名、若きハイデルベルヒ)でも窓下の学生のセレネードは別として、露台のビア・ガルテンでおおぜいの大学生の合唱があって、おなじみのエルゴ・ヴィヴァームスの歌とザラマンダ・ライベンの騒音がラインの谷を越えて向こうの丘にこだまする。
 ロシアでもドイツでも、男どうしがおおぜい寄り集まったときに心ゆくばかりに合唱することのできるような歌らしい歌をたくさんにもっているということは実にうらやましいことである。日本でも東京音頭やデッカンショがあると言えば、それはある。しかし上記のトーキーに出て来る二つの合唱だけに比べても実になんという貧しさであろう。
 これはトーキー作者の問題であると同時に、国民
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