所へ立って桜ん坊か何かつまんでは吐き出しながらトラクターの来るのをながめているところがある。下のほうからカメラを上向けに、対眼点を高くしてとったために三人の垂直線が互いに傾き合って天の一方に集中しようとした形に現われ、しかも三人の頭が画面の上端に接近しているのでいっそう不思議な効果を呈するのである。これが単にちょっと一風変わった構図であるというだけならそれまでであるが、この構図があの場合におけるあの頭巾《ずきん》とあのシャツを着たあの三人のシチュエーションなりムードなりまたテンペラメントなりに実によく適合している。こういう技巧はロシア映画ではあえて珍しくない、むしろすでに伝統的のものであるということは、たとえばわずかに書物のさし絵として見る「ポチョムキン」や「母」の中のいろいろのシーンからもうかがわれる。これらの構図に現われた空間的幾何学的構成美の鋭敏な感覚と、それに対応すべき人間の心理的現象の確実な把握《はあく》とは、要するにこれら映画の作者がすぐれた芸術家であるという平板な事実を証明するものである。芸術家でない凡庸作者がいたずらに皮相的模倣を志していかにカメラの角度を超自然的にねじ回そうとしても到底それだけで得らるべきものではない。こういう意味ではおそらくあらゆる他の国々の作者よりもロシアの作者が断然一頭地をぬいているように私にも思われる。現在のロシア、あるいはむしろ日本の若干のロシア崇拝の芸術家の仮定しているロシアの影像のかなたに存する現実のロシアに、こういう、古典的の意味での芸術の存在することはむしろ一種のアイロニーであるかもしれないのである。
 ほこりっぽい、乾苦《かわきぐる》しい、塩っ辛い汗と涙の葬礼行列の場面が続いたあとでの、沛然《はいぜん》として降り注ぐ果樹園の雨のラストシーンもまた実に心ゆくばかり美しいものである。しかしこのシーンは何を「意味する」か。観客はこのシーンからなんら論理的なる結論を引き出すことはできないであろう。それはちょうど俳諧連句《はいかいれんく》の揚げ句のようなものだからである。
 映画「大地」はドラマでもなく、エピックでもなく、またリュリックでもない。これに比較さるべき唯一の芸術形式は東洋日本の特産たる俳諧連句《はいかいれんく》である。
 はなはだ拙劣でしかも連句の格式を全然無視したものではあるがただエキスペリメントの一つとして試みにここに若干の駄句《だく》を連ねてみる。

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草を吹く風の果てなり雲の峰
 娘十八|向日葵《ひまわり》の宿
死んで行く人の片頬《かたほ》に残る笑《えみ》
 秋の実りは豊かなりけり
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こんな連続《コンチニュイティ》をもってこの一巻の「歌仙式《かせんしき》フィルム」は始まるのである。それからたとえば

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踊りつつ月の坂道ややふけて
 はたと断えたる露の玉の緒
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とでもいったような場面などがいろいろあって、そうして終わりには

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葬礼のほこりにむせて萩尾花《はぎおばな》
 母なる土に帰る秋雨
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 これらの映画を見たあとで国産の「マダムと女房」を見た。これは新式のトーキーだという話である。どれだけのところに独創的な機構の長所があるのか知ることはできないが、ともかくもトーキー器械としての役目をある程度までは果たしているようである。そうしてまず、始めから終わりまで見た後の自分の印象からいうと、それほどいやで見ていられないような場面や、退屈で腹の立つような長町場《ながちょうば》もない。善良なる一日本人として時々は愉快な笑いを誘われるところもある。これをあの実に不愉快にして愚劣なる「洛陽《らくよう》餓《う》ゆ」のごときものに比べるとそれはいかなる意味においても比較にならぬほどよい。「スピード・アップ・ホー」の合唱のごときはなはだばかげていてノンセンスではあるが、そのノンセンスの中にはおのずからノンセンスの律動的な呼吸があるから、ともかくもあまり人を退屈させない。役者も一人一人に見るとなかなかよく役々を務めて申し分ないもののようである。しかしこの映画全体を一つの芸術品として批評し、そうしてこれを「パリの屋根の下」や「大地」と比較し、そうしてまた、フランスならびにロシアに対する日本のものとして見ようとする際には遺憾ながら私は帝劇の真夏の午後の善良なる一人のお客としての地位を享楽することの幸福を放棄しなければならなくなるのである。
 たとえば文士|渡辺篤《わたなべあつし》君の家庭の夜の風景を表現するとして、そうしてねずみが騒いだり赤ん坊が泣いたり子供が強硬におしっこを要求したりして肝心の仕事ができぬという事件の推移を表現するにしても、何もあれほどまでに概念的、説明的、型録的に一から十までを一々|羅列《られつ》して見せなくてもよいと思われる。あれだけならば何もカメラを借りずに筋書きを読まされても、印象においてはたいした変わりはない。これは映画の草昧《そうまい》時代において、波の寄せては砕けるさまがそのままに映るのを見せて喜ばせたと同様に、トーキーというものにまだ一度も接したことのない観客に、丸髷《まるまげ》の田中絹代《たなかきぬよ》嬢の「ネー、あなたあ」というような声を聞かせて喜ばせようというだけの目的であるのならばその企図は明瞭《めいりょう》に了解される。われわれの日常生活の皮相的推移の見本がそっくり、あるいは少し誇張されて、眼前に映出されるのを見て珍しがるだけの目的ならばそれは確かに成効と言わなければなるまい。しかしこの概念的記述的なるものの連続の中には詩もなければ音楽もなく、何一つ生活の内面に立ち入ったリアルな生きた実相をつかまえてわれわれに教えてくれるものはないようである。つまり現代の映画の標準から見ればあまりに内容に乏しい恨みがあるのである。同じ家庭の一夜を現わすにしても、ルネ・クレールは、また、ドブジェンコは、おそらくこのようには表現しなかったであろう。概念の代わりに「印象」を、説明の代わりに「詩」を、そうして、三面記事の代わりに「俳諧《はいかい》」を提出したであろうと想像される。
 日本人、ことに知識階級の人々の中にはとかく同胞人の業績に対してその短所のみを郭大し外国人のものに対してはその長所のみを強調したがるような傾向をもつものがないとは言われない。そうしてかなりつまらない西洋の新しいものをひどく感嘆し崇拝して、それと同じあるいはずっとすぐれたものが、ずっと古くから日本にあってもそれは問題にしないような例は往々ある。私が一般に西洋映画に対して常に日本映画を低く評価するような傾向を自覚するのは畢竟《ひっきょう》私もまたこのようなやぶにらみの眼病にかかっているせいであるかとも考えてみる。
 しかし、思うに今世界的にいわゆる名監督と呼ばるる第一人者たちは、いずれも皆群を抜いた優秀な頭脳の所有者であって、もしも運命の回り合わせが彼らを他の本職に導いたとしたら、おそらく、彼らはそれぞれの方面でやはり第一人者でありうるだけの基礎的素質を備えているのではないかという気がする。換言すれば、アインシュタインとかボーアとか、ショーとか、シンクレア・リューウィスとか、あるいはマチスとか、ラヴェルとかあるいはまたそれほどでないとしたところでたとえば今度空中を飛んで来たリンドバークのような、そういう階級の頭脳をもった人たちがたまたまメガフォンを取ってシャツ一枚になって映画を作っているのではないか。
 私は一般平均から見ても、また個別的に見ても、学芸にかけての日本人の頭が少しでも欧米文化国民のそれに劣らないものだと信じて疑わないものである。しかし今までのところでまだ学芸方面において世界第一人者として、少なくとも公認されたものの数のはなはだしく希少なことについては、これにはまたいろいろの「事情」があるようである。
 今ここでこの事情なるものの分析を試みるべき筋ではないが、ともかくも、たとえばリンドバークがもし現在の日本に生まれていたら彼は決して飛行家になっていないであろうと同様に、スタンバーグ、クレール、エイゼンシュテインが日本に生まれていたのであったら彼らはまたおそらく映画監督にはなっていなかったであろうと想像される。従って、もしそうであるとしたら、この「事情」が取り除かれない限り、将来日本でほんとうに世界的な映画の作られる見込みもまたはなはだ希薄であろうと思われるのである。この事情はいつまで持続するか。これは実に単に映画界だけの問題ではなくて、日本の文化一般の将来に係わる実にだいじな一問題ではないかという気もするのである。
[#地から3字上げ](昭和六年十月、中央公論)

       七

 ルネ・クレール作「自由をわれらに」は近ごろ見た発声映画の中でもっとも愉快なものである。刑務所や工場を題材にしているにかかわらず、全体に明るい朗らかな諧調《かいちょう》が一貫している。このおもしろさはもちろん物語の筋から来るのでもなく、哲学やイデオロギーからくるのでもなんでもなくて、全編の律動的な構成からくる広義の音楽的効果によるものと思われる。
 この映画の視覚的要素で著しく目立ったライトモチーフと思われるものは、並行直線と円による幾何学的形像の構成、それから直線運動と円運動との律動的な交錯である。
 刑務所の仕事場と食堂の並行直線。これに対応して蓄音機工場における全く同様な机と人間の並行線列。学校教場の生徒の列もいくらかこれに応ずるエピソードである。刑務所と工場との建築に現われるあらゆる美しい並行直線の交響楽。脱獄のシーンに現われる二重の高塀《たかべい》の描く単純で力強い並行線のパースペクチヴ。牢屋《ろうや》や留置場の窓の鉄格子《てつごうし》、工場の窓の十字格子。終わりに近く映出される丸箱に入った蓄音機の幾何学的整列。こういったようなものが緩急自在な律動で不断に繰り返される。円形の要素としては蓄音機の円盤、工場の煙突や軒に現われるレコードのマーク。工場の入り口にある出勤登録器のダイアル。それから昼顔の花もかすかにこれに反映するものである。直線運動としては囚徒や職工の行列、工作台上の滑走台、ジュアンヌの机の前の壁を走り上る数字の列等が著しいモチーフとして繰り返される。円形運動ではレコードや、ダイアルの回転があるほかに、新工場開場式のクライマックスに吹き起こる狂風の複雑な旋転的乱舞がやはり全編の運動のクライマックスを成しているのである。そのあとで、解放された男女職工が野外のメイポールの下で踊るのがやはり円運動の余響として見られる。最後に愉快なルンペン、ルイとエミールが向かって行く手の道路の並行直線のパースペクチヴが未知なる未来への橋となって銀幕の奥へ消えて行くのである。
 音響効果としていろいろなモチーフが繰り返される。たとえば刑務所と工場の仕事場では音楽に交じる金鎚《かなづち》の音が繰り返され、両方の食堂では食器の触れ合うような音の簡単な旋律が繰り返される。クライマックスの狂風の場面の物をかきむしるような伴奏もはなはだ特異なもので画面の効果を十二分に強調する効果がある。この場面の群衆の運動の排列が実際非常に音楽的なものである。決していいかげんの狂奔ではなくて複雑な編隊運動になっていることがわかる。
 役者も皆それぞれにうまいようである。アメリカ役者にはどこを捜してもない一種の俳味といったようなものが、このルイとエミールの二人にはどこかに顔を出しているのがおもしろいと思う。このいわゆる俳味というのはロイドやキートンになくてチャプリンのどこかにある東洋哲学的のにおいである。そういえば最後のシーンで百万長者からもとのルンペンに逆もどりしたルイのメーキアップはかなりチャプリンに似たところがある。
 編中に插入《そうにゅう》された水面の漣波《れんぱ》、風にそよぐ蘆荻《ろてき》のモンタージュがあるが、この插入にも一脈の俳諧《はいかい》がある。この無意味なよう
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