。通りかかった私は立ち止まって耳を立てる。しかし言葉はほとんど聞き取れない。ただ人々の態度とおりおり聞こえる単語や、間投詞でおよその事件の推移を臆測《おくそく》し、そうして自分の頭の中の銀幕《スクリーン》に自製のトーキー「東京の屋根の下」一巻を映写するのである。
それで「パリの屋根の下」の観客は、この東京の電車や四つ辻におけると同じような態度で、フランスの都の裏町を漫歩しつつその町の屋根の下に起こりつつあるであろうところの尋常|茶飯事《さはんじ》を見物してあるくのである。これは決してつまらないことではない。かくする事によって観客はほんとうのパリとフランスとその人間とをその正常の姿において認識することができるであろう。
ルネ・クレールという作者の意図がどこにあるかはもちろん知るよしもないが、この発声映画は上記のような意味において私に発声映画というものの一つの可能性を教えてくれたものである。この先駆者の道を追って行けば日本語トーキーで世界的なものを作ることも不可能ではない。「ノン」の代わりに「いや」を插入《そうにゅう》し「ヴーザレヴォアル」のところへ「まあ見たまえ」をはめ込んでも効果においてはほとんど何もちがわないのである。
ソビエト映画「大地」もいろいろの意味において私には相当おもしろいものであった。もっともソビエトの思想に充分なる理解を持たない自分にとってはいわゆるソビエト映画としてこの映画の価値がどうかというようなことはもちろんわかるはずはない。ただのありふれの日本人としての目で見て来ただけの感想しか持ち合わせていない。
この映画でいちばん自分の注意を引いたのはいろいろのシーンの静的画面の美しさである。実に美しい活人画《タブローヴィーヴァン》がそれからそれと現われて来る。それがちょうど俳諧連句《はいかいれんく》の句々の連珠のようなモンタージュによって次々に展開進行して行くのである。開巻第一に現われる風の草原の一シーンから実に世にも美しいものである。風にゆれる野の草がさながら炎のように揺れて前方の小高い丘の丸山のほうへなびいて行く、その行く手の空には一団の綿雲が隆々と勢いよく盛り上がっている。あたかも沸き上がり燃え上がる大地の精気が空へ空へと集注して天上ワルハラの殿堂に流れ込んでいるような感じを与える。同じようではあるが「全線」の巻頭に現われるあの平野とその上を静かに流れる雲の影のシーンには、言い知らぬ荒涼の趣があり慰めのない憂愁を含んでいるが、ここでは反対に旺盛《おうせい》な活力の暗示がある。そうしてそのあとに豊富な果樹の収穫の山の中に死んで行く「過去」の老翁の微笑が現われ、あるいはまた輝く向日葵《ひまわり》の花のかたわらに「未来」を夢みる乙女《おとめ》の凝視が現われる。これらは立派な連句であり俳諧である。
しかしこれらの一つ一つのシーンは多くの場合に静的であり活人画でありポーズである。そうして、これらの静的なものから静的なものへの推移の過程の中に動的なるものを求め、そうしてそこに「シーンのメロディ」を作っているように見える。このようなことはいわゆるモンタージュの一つの技法であって、何もこの映画ばかりに限ったことはなく、「トルクシヴ」でも「全線」でも始終に見せられて来たことではあるが、ただこの「大地」においては特別にこの一つ一つのシーンの静的な因子が強調されているように感じられたのであった。この静的が時にはあまりに鈍重の感があっていささか倦怠《けんたい》を招くような気のすることもあった。たとえばだいじのむすこを毒殺された親父《おやじ》の憂鬱《ゆううつ》を表現する室内のシーンでもその画面の明暗の構図の美しさはさまにレンブラントを想起させるものがあるが、この場面のいろいろなヴァリエーションが少なくも多くの日本人には少し長すぎるであろうと思われる。しかしまた一方から見ればまさにこの点が私にはこの映画をしていっそうロシア的ならしむる要素であるようにも思われる。すなわち、こういう遅緩なテンポとリズムを使用することによって、ロシアの片田舎《かたいなか》のムジークの鈍重で執拗《しつよう》な心持ちがわれわれ観客の心の中にしみじみとしみ込んで来るような気がしないことはない。
葬式の行列もやはりわれわれには多少テンポのゆるやかすぎる感じがある。これを「全線」に現われる雨ごいの行列と対照するとやはり後者のほうがより多く動的であるように見えるのである。しかしここでもわれわれが、あるいは私が、テンポのゆるやかすぎると感じるところは、ロシアの農民の多数にはおそらくそうは感じられないであろう。これは私が前に述べたリズム感の基礎をなす「固有週期」といったようなものがロシア農民と日本のファンとで著しくちがうためではないかと思われる。そうしてこれ
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