ち観客の目があちらからこちらへと渡って歩くと同じリズムで画面の切り換えが行なわれるかどうかによるのであろう。観客があちらを見たくなる時にちょうどあちらの群れが現われ、こちらを向きたくなる時にちょうどこちらが現われ、アルベールの顔が見たくなる瞬間を見すましてアルベールの顔が現われる。そうしてまた彼の目に案内されて観客が見たいと思う方面が誤たず即座にスクリーンに出現するのである。
これと全く同一技法は終巻に近い酒場の場面でも使用されている。すなわち、一方にはある決心をしたアルベールと不安をかくしているポーラが踊っている。一方のすみには熊鷹《くまたか》のような悪漢フレッドの一群が陣取って何げないふうを装って油断なくにらまえている。ここで第三者たる観客はまさに起こらんとする活劇の不安なしかも好奇な期待に緊張しながら、交互にあちらを見たりこちらを見たりして、そうして自分も劇中の一員となってクライマックスへの歩みを運んで行くのである。そうしてこの場面にもまた背景となる音楽がなめらかに流れているのである。たったこれだけのことである。しかしここでもし下手《へた》な監督がこのような筆法を皮相的にまねてこれに似たことをやったとしたら、この単調な繰り返しはたぶん堪え難い倦怠《けんたい》を招くほかはないであろう。実際そういうまずいほうの実例はいくらでもある。それをそうさせない微妙な呼吸はただこの際における「固有な自然のリズム」の正確の把握《はあく》によってのみ得られるのである。
上手《じょうず》と下手の相違はだいたい何事でも言葉では言い現わせないところにあり、メーターで測れないところにあるのが通例であるが、これらの映画の切り換えのリズムは一つ一つの相次ぐフィルム切片の駒数《こますう》を数えて、その数字を適当に図示し曲線でも作ってみれば、それによってこの場合の芸術的効果がいくらか科学的分析のメスにかけられる見込みがあるかもしれない。これはやってみたら必ず映画製作に従事する人たちにとって何かの良い参考になるであろうと思われる。
発声映画としての「パリの屋根の下」のもう一つの特徴は、筋を運ぶための言葉をほとんど極端にまで切り詰め省略してしまったことである。それで話の筋から見れば事実上はほとんど無声映画と同じようなものである。それがためにかえってわずかに使われた人間の声がかなり有効に強調されて来る。たとえばアルベールがポーラの夜の宿の戸口で彼女に何事か繰り返してささやくと「イヤ」「イヤ」とそのたびに否定する。たったそれだけである。これが、大概のアメリカトーキーだと、おそらく、このアルベール君は三町四方に響くような大声で「ささやく」ことであろう。また掏摸《すり》にすられた中《ちゅう》ばあさんが髪をくくりながら鼻歌を歌っているうちに手さげの中の財布《さいふ》の紛失を発見してけたたましい叫び声を立てるが、ただそれだけである。これもアメリカトーキーだとここでなんとか一つ取っておきのせりふを言わせて、そうしてアメリカ語のわかる観客だけをどっと笑わせないと気がすまないであろう。
普通の演劇においてはせりふは本質的要素である。役者の言葉を一言一句聞きのがしてはならない。芝居は見るものであると同じくらいにまた聞くものである。聴覚のほうが主になれば役者は材木と布切れで作った傀儡《かいらい》でもよい。人形芝居がすなわちそれである。
しかし、今私がかりにパリへ行ってその屋根の下を流れ渡り、辻《つじ》の艶歌師《えんかし》を聞いたり、酒場の一隅《いちぐう》に陣取ったりしていると想像した場合に、私の眼前に登場する人物の話している言葉が一つ一つ明確に私にわかるかどうか。私がかりにはえ抜きのパリッ子であってもそう一々わかるはずがないのである。理由は簡単である。これら登場人物中には舞台の役者のような気になってしゃべっている人は一人もないからである。これはパリに限らずわれわれの日常生活の環境における明白な事実である。こういう意味でわれわれはわれわれの直接の対話の相手の言葉以外にはかなりな聾者《ろうしゃ》であり、また「外国人」である。しかし、電車の中で向こう側にすわった彼と彼女の対話を、ちょうどフランス発声映画に対すると同じ態度で見つつかつ聞き、そうして彼らの「ノン」「ウイ」だけを明瞭《めいりょう》に了解するのである。ただし電車の二人連れについては、われわれは「その前」と「その前々」のシーンに関する予備知識を持たないのであるから、従って「その次」のシーンに対する好奇心も起こらない。結局トーキーの中のただ一片のカットを見物したと同じに、興味はただそれだけで泡《あわ》のように消えてしまうのである。またある四つ辻《つじ》で人々がけんかをしている。交番に引かれる。巡査が尋問する。人だかりがする
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