だん大きくなるのが印象的な迫力をもっている。「烏賊《いか》」ホテルの酒場のガラス窓越しに、話す男女の口の動きだけを見せるところは、「パリの屋根の下」の一場面を思いだす。
 メッサーの手下が婚礼式場用の椅子《いす》や時計を盗みだすところはわりによくできている。くどく、あくどくならないところがうまいのであろう。倉庫の暗やみでのねずみのクローズアップや天井から下がった繩《なわ》にうっかり首を引っかけて驚いたりするのも、わざとらしくない。そうして塵埃《じんあい》のにおいが鼻に迫る。
 結婚式場のぎょうぎょうしくて派手で、それでいて実に陰惨でグロテスクな光景もよくできている。ここでポリーの歌う Barbara Song はなかなか美しい。セットのおぼろ夜の空とおぼろ月がかえって本物より効果がいいようである。
 情婦ジェニーが市松模様《いちまつもよう》のガラス窓にもたれて歌うところがちょっと、マチスの絵を見るような感じである。
 乞食頭《こじきがしら》のピーチャムのする芝居にはどうも少ししっくりしないわざとらしさを感じる。
 この映画の前半はいかにも昔のロンドンのような気分があるのに後半はなんとなく近代のベルリーンあたりのような気持ちになるのが不思議である。それで前半ではドイツ語が不自然に聞こえ、後半ではそれが当然に聞こえる。
 音楽はなかなかおもしろい。同じジャズの楽器でもドイツ人の手にかかると、こうも美しくなるものかと感心させられる。あのサキソフォーンでさえも実に味のこまやかな音として聞かれる。アメリカのジャズはなるほどおもしろいと思う時はあっても、自分にはどうも妙な臭みが感ぜられる。たとえば場末の洋食屋で食わされるキャベツ巻きのようにプンとするものを感じる。これはおそらくアメリカそのもののにおいであろう。しかしこのクルト・ワイルのジャズ(?)にはそれがみじんもなくて、ゲーテやバッハを生んだドイツ民族の情緒が濃厚ににじみだしている。そうしてそれでいて同時にまたどれにもどこかしら Gallow Song しかもやはりイギリスらしいそれの味がしみじみとかみしめられるような気もするのである。最後に町の暗やみの中に幽霊のように消えて行くルンペンの行列とともにゆるやかに句切って再び響くモリアットの歌も、スクリーンの前の幕がおりて席を立ってそうして往来へ出て後までもいつまでも耳に残って忘れ難いものである。
 この映画を見た前夜にグスタフ・マーラーの第五交響楽を聞いた。あまりにも複雑な機巧に満ちたこの大曲に盛りつぶされ疲らされたすぐあとであったので、この単純なしかし新鮮なフィルムの音楽がいっそうおもしろく聞かれたのかもしれない。そうしてその翌晩はまた満州《まんしゅう》から放送のラジオで奉天《ほうてん》の女学生の唱歌というのを聞いた。これはもちろん単純なる女学生の唱歌には相違なかったが、しかし不思議に自分の中にいる日本人の臓腑《ぞうふ》にしみる何ものかを感じさせられた。それはなんと言ったらいいか、たとえば「アジアの声」を聞くといったような感じであった。アメリカのジャズとドイツのジャズとの偶然な対比の余響からたまたまそういう気がしたかもしれない。
 それにしてもわれわれ生粋《きっすい》の日本人のほんとうに要求する音映画はまだどこにもない。そういったような気がするのであった。われわれの要求するものはやはり日本のパブストであり、日本のルネ・クレールであろう。こういつまでも外国のものの封切りを追いかけては感心させられる事に忙しいのでは困るという気もした。
 これより前にソビエト映画「婦人の衛生」を見た。これは「三文オペラ」とは全然別の畑のもので、ほとんど純粋な教育映画としか思われないものであったが、それでも一つ一つのシーンにもまた編集の効果にもなかなか美しいものが多数に見られるのであった。ムジークのお客さんには少しもったいなくもあるし、またわかりにくそうにも思われるくらいであった。ただこの映画を見ているうちに感じた一つのことは、この映画に使われている子供や女工や、その他の婦人の集団やがちょうど機械か何かのように使われていることである。これを見ていると、なんだか現在のロシアでは三度のめしを食うのでもみんな号令でフォークやナイフを動かしているのではないかというような気がして来て、これでは自分のようなわがままな人間はとてもやりきれないだろうという気がするのであった。たとえば工場の仕事の合間に号令一下で体操をやってまた仕事にとりかかる。海岸で裸で日光浴をやっているオットセイのような群れも号令でいっせいに寝返りを打ってこちらを向く。おおぜいの子供が原っぱに小さなきのこの群れのように並んで体操をやっている。赤ん坊でもちょうど蛙《かえる》か何かのように足をつかまえてぶらさ
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