ことのできない音である。いくらか似た音を求めれば、製材所の丸鋸《まるのこ》で材木を引き割るあの音ぐらいなものであろう。先年|小田原《おだわら》の浜べで大波の日にヘルムホルツの共鳴器を耳に当て波音の分析を試みたことがあったが、かなりピッチの高い共鳴器で聞くとチリチリチリといったように一秒間に十回二十回ぐらいの割合で断続する轢音《れきおん》が聞こえる、それがいくらかこの蝗群の羽音に似通《にかよ》っているのである。やはり、音の生成機巧に共通なところがあるからであろう。すなわち、浜べで無数の砂利《じゃり》が相打ち相きしるように無数の蝗の羽根が轢音を発している、その集団的効果があのように聞こえるのではないかと思われる。そういえば丸鋸で材木をひく時にもこれに似た不規則な轢音の急速な断続があるのである。
この蝗の羽音は何を語るか。蝗は何を目的として何物に導かれてどこからどこへ移動するか。世界は自分らのためにのみできているとばかり思っているわれわれ愚かな人間は茫然《ぼうぜん》としてテントの小窓からこの恐ろしい生命のあらしをながめてため息をつくであろう。
湖畔のフラミンゴーの大群もおもしろい見物《みもの》である。一面におり立った群れの中に一か所だけ円形な空地があるのはどういうわけかと思って考えてみた。おそらくそこだけ湖底に凹所《おうしょ》があって鳥の足には深すぎるので、それでそこだけが明いているのだろうと想像された。もしそうだとすれば鳥の群れの写真から湖底の等深線の一つがわかるはずである。こういうことも実写映画のおもしろみの一つである。群集から少し離れた前面を二列に並んだ鳥の縦隊が歩調をそろえて進行するところがある。鳥はどういう気でなんのためにああいう事をやっているのか人間にはやはりわからない。
この映画を見た晩に宅《うち》へ帰って夕刊を見ると早慶三回戦だかのグラウンドの写真が大きく出ている。それを見たとき自分は愕然《がくぜん》として驚いたのであった。場を埋《うず》むる人間の群れが、先刻見たばかりの映画中のフラミンゴーの群れとそっくりに見えたからである。もしやアフリカのフラミンゴーが偶然球戯場の空へ飛んで来て人間の群れを見おろしたとしたら、彼らにはやはりこの集団の意味はわからないであろう。実はこういう自分にも近ごろの野球戦に群がる人間の大群の意味は充分完全にはよくわからないので
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