はり映画芸術に本質的な随一の要素の一つを具備しているからであろう。牡牛《おうし》の死ぬる前後のところも単なる実写的の真実に対する興味のほかに、映画としての取り扱い方のうまさは充分にある。それから、こういうロシア映画でいつもおもしろいと思うのは出場人物のタイプの豊富さであるが、これは他の欧州諸国では得られない天然の制約によるものであろう。
この監督の新しい理論に基づいて構成されたと称するこの映画は、たしかにおもしろいところがあるには相違ないが、しかしまだなんとしても未来の映画への一つの試みという程度を越えていないような気がする。いろいろないわゆるモンタージュやエディティングの必然性が観客の頭へはそれほどに響いて来ない。おそらくこの監督自身の企図している道程から見ても、わずかに一歩を踏み出したに過ぎないではないかと思われる。聞くところによるとこの有名な映画監督は日本の文化の中の至るところに映画術的要素があるのに、日本の今の映画には不思議にその要素が欠けている、という意味の批評をしているそうである。そうして日本の俳諧《はいかい》や短歌の中にモンタージュ芸術の多分な要素の含まれていることを強調しているそうである。
エイゼンシュテインがいかなる程度にわが国の俳諧を理解してこう言っているかはわかりかねるが、日本人の目から見ても最もすぐれたモンタージュ芸術の典型として推すべきものはいわゆる俳諧連句そのものである。
ヤニングスとディートリヒの「青い天使」「嘆きの天使」というのを見た。同じ監督がこのあとに作った「モロッコ」を見たあとでこれを見たことは一つのおもしろい経験であった。著名な科学者の一代の大論文を読んで感心したあとで、その人のその論文を書くまでの道筋を逆にたどってそれまでのその人の著述を順々に古いほうへと読んで行くと、最初に感心させられたものが、きわめて平凡なあたりまえの落ち着き所であるとしか思えなくなって来る。これとは事がらはちがうが多少似た関係がこの二つの映画の間に見いだされる。すなわち後の「モロッコ」において純化され洗練されて現われているものが「青い天使」ではまだいろいろの過去の塵埃《じんあい》の中にちらばって現われているような気がする。
最初にハンブルグの一|陋巷《ろうこう》の屋根が現われ鵞鳥《がちょう》の鳴き声が聞こえ、やがて、それらの鵞鳥を荷車へ積み込む
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