人の人の有声映画というものに対する心的態度と要求との根本的差違を反映する現象である。将来の有声映画製作者にとってはこの二つの対蹠的《たいせきてき》な現象の分析的研究が必要となるであろう。この二つのものはしかし必ずしも互いに相容《あいい》れないものではないように私には思われるのである。
[#地から3字上げ](昭和六年五月、文芸春秋)
三
「青い天使」と同日に「モンテカルロ」を見たのもおもしろい取り合わせであった。古典音楽のあとでジャズを聞くような感じがした。二つのものの行き方のちがいがかなりはっきり対照される。前者は何かしら考えさせよう考えさせようとする思わせぶりが至るところに鼻につくような気もするが、後者は反対に何事をも考えさせないように考えさせないようにとしているところがある。これはもちろん二つの間のストーリーの根本的の差違によることであり、また一方では劇的分子、一方では音楽的分子が主要なものになっているためもあるが、しかしまた二人の監督の手法の些細《ささい》な点まで行き渡った違いによることも明白である。侯爵家の家従がパッとマグネシウムをたいてポンと写真を取ると、すぐに機関車がスクリーンにとび出してエンジンの音楽の始まるところの呼吸などはちょっと理屈なしにおもしろい。本来ならば実に退屈で到底見ていられそうもない筋と材料を使って、そうしてちっとも退屈させないで緊張をつづけて行くのは映画としての編成の上に至るところ非常に気のきいた取り扱い方があるおかげであろう。そうして、それが簡単に一口に説明のできないようなところにうまみがあるからである。最後のオペラの場面でも、二つの向き合ったロージュと舞台との交錯した切り合わせ方の呼吸などがそれである。あれをもう少し下手《へた》にやろうものならおそらく見るに堪えない退屈なものになるにちがいない。
ソビエト映画「全線」というのを見た。これも肝心な所が省略されているそうであるが、それでもおもしろくなくはない。牛乳びんがいっせいに充填《じゅうてん》されて行くところだとか、耕作機械の大分列式だとか、これらは子供にもおとなにも、赤にも白にも、無条件におもしろい何物かをもっている。映画のそもそもの始めに見物を喜ばせた怒濤《どとう》の実写などが無条件におもしろがられたのは、決して単に珍しいというだけの好奇心の満足ではなくてや
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