げられた希望の満足に関する記憶の濃度のほうが、かの失敗した試みに伴のうた強烈なる法悦の記憶に比べてかえって希薄である。
その時の映画の種板はたいてい一枚一枚に長方形の桐製《きりせい》のわくがついていて、映画の種類は東京名所や日本三景などの彩色写真、それから歴史や物語からの抜萃《ばっすい》の類であった。そのほかに活動映画の先祖とも言われるべき道化人形の踊る絵があった。目をあいたり閉じたり、舌を出したり引っ込ませたりするような簡単な動作を単調に繰り返すだけである。また美しい五彩の花形模様のぐるぐる回りながら変化するものもあった。こんな幼稚なものでも当時の子供に与えた驚異の感じは、おそらくはラジオやトーキーが現代の少年に与えるものよりもあるいはむしろ数等大きかったであろう。一から見た十は十倍であるが、百から見た同じ十はわずかに十分の一だからである。今の子供はあまりに新しい驚異に対して麻痺《まひ》させられているような気がある。
活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原《かがみがわら》の納涼場で、見すぼらしい蓆囲《むしろがこ》いの小屋掛けの中でであっ
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