ではあった。観客は亮の兄弟と自分らを合わせて四五人ぐらいはあったが、映画技師、説明者が同時に映画製造者を兼ねるのみならず、肝心のガラス板がやっと二枚ぐらいしか掛け替えがないのだから亮の骨折りは一通りでなかったろうと思われる。後には自分の父に頼んでもう少し大きい板ガラスを、ちゃんとした木箱の前面のみぞにさし入れさしかえるようにしたものを大工に作らせ、映画も十枚か二十枚あらかじめ仕入れておいて、そうしてわれわれのほかに近所じゅうの少年をかり集めてやるようになった。映画のほかに余興とあってまね事のような化学的の手品、すなわち無色の液体を交ぜると赤くなったり黄色くなったりするのを懇意な医者に準備してもらった。それはまずいいとしても、明治十年ごろに姉が東京の桜井学校《さくらいがっこう》で教わった英語の唱歌と称するものを合唱したりしたのは実に妙であった。その文句は今でも覚えているがその意味に至っては今にわからない。思い出しても冷や汗が流れる。しかしとにかくこんな西洋くさい遊戯が明治二十年代の土佐《とさ》の田舎《いなか》の子供の間に行なわれていたということは郷土文化史的にも多少の意味があるかもしれな
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