い。それよりも自分の生涯《しょうがい》の上にはこんな事件が思いのほかに大きな影響を及ぼしたのかもしれない。
その後おもちゃ屋で虫めがねのレンズを買って来て、正式の幻燈器械を作ろうとしたが失敗した。今考えてみると光学上の初歩の知識さえ皆無であり、それに使ったレンズがきわめて粗悪なものであるのみならず、焦点距離が長いのに、原画をあまり近く置きすぎたために鮮明な映像を得られなかったのは当然である。それでもこの失敗した試みが自分の理学的知識欲を刺激する効果のあっただけは確かである。南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧《もうろう》たる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手《へた》な鳥の絵のぼやけた映像を今でも思い出すことができる。その鳥はさかさまになって飛んでいたのである。
明治二十三年であったか、父が東京の博覧会見物に行ったみやげにほんとうの幻燈器械と数十の映画を買って帰ったので、長い間の希望はついに実現されたわけであるが、妙なことにこの遂げられた希望の満足に関する記憶の濃度のほうが、かの失敗した試みに伴のうた強烈なる法悦の記憶に比べてかえって希薄である。
その時の映画の種板はたいてい一枚一枚に長方形の桐製《きりせい》のわくがついていて、映画の種類は東京名所や日本三景などの彩色写真、それから歴史や物語からの抜萃《ばっすい》の類であった。そのほかに活動映画の先祖とも言われるべき道化人形の踊る絵があった。目をあいたり閉じたり、舌を出したり引っ込ませたりするような簡単な動作を単調に繰り返すだけである。また美しい五彩の花形模様のぐるぐる回りながら変化するものもあった。こんな幼稚なものでも当時の子供に与えた驚異の感じは、おそらくはラジオやトーキーが現代の少年に与えるものよりもあるいはむしろ数等大きかったであろう。一から見た十は十倍であるが、百から見た同じ十はわずかに十分の一だからである。今の子供はあまりに新しい驚異に対して麻痺《まひ》させられているような気がある。
活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原《かがみがわら》の納涼場で、見すぼらしい蓆囲《むしろがこ》いの小屋掛けの中でであった。おりから驟雨《しゅうう》のあとで場内の片すみには川水がピタピタあふれ込んでいた。映画はあひる泥坊《どろぼう》を追っかけるといったようなたわいないものであったが、これも「見るまでは信じられなくて、見れば驚くと同時に、やがては当然になる」種類の経験であった。ともかくも、始めて幻燈を見たときほどには驚かなかったようである。
明治四十一年から三年までの滞欧中には、だれもと同様によく活動を見たものである。当時ベルリンではこれを俗にキーントップと言っていた。常設館はいくつもあったがみんな小さなものでわずかの観客しか容《い》れなかったように覚えている。邦楽座《ほうがくざ》や武蔵野館《むさしのかん》のようなものはどこにもなかったようである。各地に旅行中の夜のわびしさをまぎらせるにはやはりいちばん活動が軽便であった、ブリュッセルの停車場近くで見た外科手術の映画で脳貧血を起こしかけたこともあった。それは象のように膨大した片腕を根元から切り落とすのであった。
帰朝後ただ一度|浅草《あさくさ》で剣劇映画を見た。そうして始めていわゆる活弁なるものを聞いて非常に驚いて閉口してしまって以来それきりに活動映画と自分とはひとまず完全に縁が切れてしまった。今でも自分には活弁の存在理由がどうしても明らかでないのである。
自分が活動写真の存在を忘れているうちに、活動のほうでは、そういう自分の存在などは問題にしないで悠々《ゆうゆう》と日本全国を征服していた。長男が中学へ入学したときに父兄として呼び出されて行った。その時に控え室となっていた教場の机の上にナイフでたんねんに刻んだいろいろのらく書きを見ていたら、その中に稚拙な西洋婦人の立ち姿の周囲にリリアン・ギッシュ、メリー・ピクフォードなどという名前が彫り込んであった。自分の中学時代のいたずらを思い出すと同時に、ひどく時代におくれたものだという気がした。
荒物屋|駄菓子屋《だがしや》の店先に客引きの意味でかかっている写真の顔が新聞やビラの広告に頻繁《ひんぱん》に現われる。聞いてみるとそれがみんな活動俳優のいわゆるスターだそうである。幕末勇士などに扮《ふん》した男優の顔はいかなる蛮族の顔よりもグロテスクで陰惨なものであるが、それが特別に民衆に受けると見えてそれらの網目版が至るところの店先で自分をにらみつけ、脅かし圧迫した。
長い間縁の切れていた活動
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