影法師を見たことがある。頭の上で両手を交差して、一点の弧光から発する光でスクリーンに影を映すだけのことであるが、それは実に驚くべき入神の技であった。小猿《こざる》が二匹向かい合って蚤《のみ》をとり合ったりけんかをしたりするのが、どうしても本物としか思われないのに、それはやはりただなんの仕掛けもない二つの手の影法師に過ぎないのである。そのほかに、たとえば、飲んだくれの亭主《ていしゅ》が夜おそく帰って来て戸をたたくと女房のクサンチペがバルコンから壺《つぼ》の中の怪しい液体をぶっかけ、結局つかみ合いになるという活劇をもわずかな小道具と背景を使って映し出して見せた。この同じ見せものにその後米国へ渡って、また偶然出くわした。これだけの特技があれば世界を胯《また》にかけて食って行けるのだと感心した。これを見ておもしろがる人々はただ妙技に感心するだけではなくて、やはり影絵のもつ特殊の魅惑に心酔するのである。
 これらの原始的の影法師と現在の有声映画には数世紀の隔たりがあるにかかわらず、現在の映画はこのただの影法師から学ぶべきものを多くもっているかもしれない。
 有声映画に取り入れられる音声も、単に話の筋道をはこぶための会話の使用にはたいてい先が見えている。やはり「音の影法師」のようなものに遠い未来があるであろう。
 このごろ見たうちで、アメリカの川船を舞台としたロマンスの場面中に、船の荷倉に折り重なって豚のように寝ているニグロの群れを映じてそれにものうげに悲しい鄙歌《ひなうた》を歌わせるのがあった。これを聞いているうちに自分はアメリカの黒奴史を通覧させられるような気がした。
 砂漠《さばく》でらくだがうずくまっていると飛行機の音が響いて来る、するとらくだが驚いて一声高くいなないて立ち上がる。これだけで芝居のうそが生かされて熱砂の海が眼前に広げられる。ホテルの一室で人が対話していると、窓越しに見える遠見の屋上でアラビア人のアルラーにささげる祈りの歌が聞こえる。すると平凡な一室が突然テヘランの町の一角に飛んで行く。こういう効果はおそらく音響によってのみ得られるべきものである。探偵《たんてい》が来て「可能的悪漢」と話していると、隣室から土人娘の子守歌《こもりうた》が聞こえる。それに探偵が聞き耳を立てるところに一編の山がある。こういう例はあげれば際限なくあげられるかもしれないが、しかし概して自動車の音、ピストルの響きの紋切り形があまりにうるさく幅をきかせ過ぎて物足りない。ほかにいくらでもいいものがあるのを使わないでいるような気がする。試みに自動車とピストルとジャズの一つも現われないトーキーを作ってみたいものである。
 俳句にはやはり実に巧みに「声の影法師」を取り入れた実例が多い。たとえば「鉄砲の遠音《とおね》に曇る卯月《うづき》かな」というのがある。同じ鉄砲でもアメリカトーキーのピストルの音とは少しわけがちがう。「里見えそめて午《うま》の貝吹く」というのがある。ジャズのラッパとは別の味がある。「灰汁桶《あくおけ》のしずくやみけりきりぎりす」などはイディルレの好点景であり、「物うりの尻声《しりごえ》高く名乗りすて」は喜劇中のモーメントである。少なくも本邦のトーキー脚色者には試みに芭蕉《ばしょう》蕪村《ぶそん》らの研究をすすめたいと思う。
 未来の映画のテクニックはどう進歩するか。次に来るものは立体映画であろうか。これも単に双眼《ステレオ》的効果によるものでなく、実際に立体的の映像を作ることも必ずしも不可能とは思われない。しかしそれができたとしたところでどれだけの手がらになるかは疑わしい。映画の進歩はやはり無色平面な有声映画の純化の方向にのみ存するのではないかと思われる。それには映画は舞台演劇の複製という不純分子を漸次に排除して影と声との交響楽か連句のようなものになって行くべきではないかと思われるのである。
 こんな話をしていたらある人がアヴァンガルドという一派の映画がいくらかそういう方向を示すものだと教えてくれたが、まだ実見することができない。
 ここまで書いて後にウーファ社の教育映画で海の浮遊生物を写したものを見た。顕微鏡で見る場合では、眼前の顕微鏡と、その鏡下のプレパラートとの相対的の大きさがちゃんと意識されているのであるが、それがスクリーンの上に大きく写されたのでは全くそのままの大きさの怪物としか思われない。その怪物の透明な肢体《したい》の各部がいろいろ複雑微妙な運動をしている。しかしわれわれ愚かな人間にはそれらの運動が何を意味するか、何を目的としているか全くわからない。わからないから見ていて恐ろしくなりすごくなる。哀れな人間の科学はただ茫然《ぼうぜん》として口をあいてこれをながめるほかはない。これが神秘でなくて何であろうか。この実在の怪物と、
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