の夢を実現するという点に存すると思われる。現実の世界において望んで得べからざる願望が夢の国において実現されるように、人工映画の世界においてはあらゆる空想が安々と実現される。ねずみのしっぽを引き延ばしてひけば一弦琴になり、今まいた豆のつるをよじて天に登ることもできる。漫画の長所はこれのみに限らない。似顔漫画が写真よりもいっそうよくその人に似るというのと同様に、対象の特徴の或《あ》る少数なる要素を抽出し誇張して、それをモンタージュ的に構成することによって、実物よりもいっそう実在的なものを創造するのである。近ごろ見た漫画の中に登場した一匹の犬などは実によく犬という愛すべき家畜の特性を描象してほとんど「犬自体」を映出していると思われた。もう一つの漫画の長所は、音楽との対位法的モンタージュを行なう場合における視像のエキスプレッションが自由自在であって、画像の運動は pp[#「pp」は縦中横、音楽記号のピアニッシモ] から ff[#「ff」は縦中横、音楽記号のフォルテシモ] まで任意に大なる変化をすることができ、クレッセンドー、ディミニゥエンドー勝手次第なことである。顔じゅういっぱいに口をあけようと、針で突いたほどにつぼめようと自在である。
 こういうふうに考えてみると漫画の将来にはまだいろいろな未発見の領土が隠れていそうに思われる。ただ現在のビンボー類似の作品はあまりに荒唐無稽《こうとうむけい》な刺激を求め過ぎて遠からず観客の倦怠《けんたい》を来たすおそれがありはしないかと思われる。
 普通の現実的映画が散文であるとすれば、漫画は詩であり歌でありうる、むしろそうあるべきものである。今の漫画は俳諧《はいかい》ならば談林風のたわけを尽くしている時代に相当する、遠からず漫画の「正風《しょうふう》」を興すものがかえって海のかなたから生まれはしないかという気もする。ほんとうはこれこそ日本人の当然手を着けるべき領域であろう。

     映画と国民性

 すべての芸術にはそれぞれの国民の国民的潜在意識がにじみ出している。映画でもこれは顕著に滲透《しんとう》している。アメリカ映画はヤンキー教の経典でありチューインガムやアイスクリームソーダの余味がある。ドイツ映画には数理的科学とビールのにおいがあり、フランス映画にはエスカルゴーやグルヌイーユの味が伴なう。ロシア映画のスクリーンのかなたにはいつでも茫漠《ぼうばく》たるシベリアの野の幻がつきまとっている。さて日本の映画はどうであろう。数年前の統計によるとフィルムの生産高の数字においてはわが国ははるかにフランスやドイツを凌駕《りょうが》しているようであるが、これらの映画の品等においてはどうであるか。たくさんの邦産映画の中には相当なものもあるかもしれないが、自分の見た範囲では遺憾ながらどうひいき目に見ても欧米の著名な映画に比肩しうるようなものはきわめてまれなようである。
 ロシア崇拝の映画人が神様のようにかつぎ上げているかのエイゼンシュテインが、日本固有芸術の中にモンタージュの真諦《しんたい》を発見して驚嘆すると同時に、日本の映画にはそれがないと言っているのは皮肉である。彼がどれだけ多くの日本映画を見てそう言ったかはわかりかねるが、この批評はある度までは甘受しなければなるまい。なんとなればわが国の映画製作者でも批評家でも日本固有文化に関心をもって、これに立脚して製作し批評しているらしい人は少なくも自分の目にはほとんど見当たらないからである。アメリカニズムのエロ姿によだれを流し、マルキシズムの赤旗に飛びつき、スターンバーグやクレールの糟《かす》をなめているばかりでは、いつまでたっても日本らしい映画はできるはずがないのである。
 剣劇の股旅《またたび》ものや、幕末ものでも、全部がまだ在来の歌舞伎《かぶき》芝居の因習の繩《なわ》にしばられたままである。われらの祖父母のありし日の世界をそのままで目の前に浮かばせるような、リアルな時代物映画は見たことがない。チャンバラの果たし合いでも安芝居の立ち回りの引き写しで、ほんとうの命のやりとりらしいものはどこにも求められない。時局あて込みの幕末ものの字幕のイデオロギーなどは実に冷や汗をかかせるものである。現代の大衆はもう少しひらけているはずであると思う。もちろん営利を主とする会社の営業方針に縛られた映画人に前衛映画のような高踏的な製作をしいるのは無理であろうが、その縛繩《ばくじょう》の許す自由の範囲内でせめてスターンバーグや、ルービッチや、ルネ・クレールの程度においてオリジナルな日本映画を作ることができないはずはない。それができないのは製作者の出発点に根本的な誤謬《ごびゅう》があるためであろう。その誤謬とは国民的民族的意識の喪失と固有文化への無関心無理解とであろう。もっとも、良い映画のできないということの半分の責任は大衆観客にあることももちろんであろうが、しかし元来芸術家というものは観賞者を教育し訓練に導きうる時にのみ始めてほんとうの芸術家である。チャップリンのごとき天才は大衆を引きつけ教育し訓練しながら、笑わせたり泣かせたりしてそうして莫大《ばくだい》な金をもうけているのである。
 和歌|俳諧《はいかい》浮世絵を生んだ日本に「日本的なる世界的映画」を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的|雰囲気《ふんいき》の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである。それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。

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(付記) 紙数に制限のあるために省略した項目の中にはたとえば「字幕《サブタイトル》」の問題や、映写幕《スクリーン》の形状の問題のごときものがある。また芸術的実写映画としての山岳映画や猛獣映画のごときものについても一通り述べたかったのであるが、これらについても他日適当な機会に、他の場所で一応の考察を試みたいと思う。
 本編を草するために参考にした書物は次のようなものである。(次第不同)
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V. I. Pudovkin : On Film Technique, 1930.
W. Pudowkin : Filmregie und Filmmanuskript, 1928.
〔Be'la Ba'lazs : Der sichtbare Mensch. Eine Film−Dramaturgie (2te Aufl.)〕
〔Be'la Ba'lazs : Der Geist des Films, 1930. 〕
〔Le'on Moussinac : Panoramique du cine'ma, 1929. 〕
Bryher : Film Problems of Soviet Russia, 1929.
L. Moholy−Nagy : Malerei, Fotografie, Film.
〔Der russische Revolutionsfilm (Schaubu:cher 2, Orell Fu:ssli Verlag.) 〕
Russische Filmkunst (Ernst Pollak Verlag.)
G.Herkt : Das Tonfilm−Theater.
Close Up : Vol. VI, VII.
エイゼンシュテイン、映画の弁証法(佐々木能理男《ささきのりお》訳)。
ベーロ・ボラージュ、映画美学と映画社会学(前掲「映画の精神」の邦訳、佐々木能理男訳)。
上田進《うえだすすむ》訳編、映画監督学とモンタージュ論。
レオン・ムーシナック、ソヴィエト・ロシアの映画(飯島正《いいじまただし》訳)。
エリック・エリオット、映画技術と芸術(岸松雄《きしまつお》訳)。
佐々木能理男訳編、発声映画監督と脚本論。
ヴェ・シュクロフスキイ、シナリオはいかに書くべきか(本間七郎《ほんましちろう》訳)。 
セルディス、トオキイと映画芸術(高原富士郎《たかはらふじろう》訳)。
佐々木能理男・飯島正、前衛映画芸術論。
映画科学研究、第八|輯《しゅう》。
新撰《しんせん》映画脚本集、下巻。
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以上ただ手に触れるに任せて一読しただけのものを並べたに過ぎない。すべてが良書だというわけではない。翻訳を読むには用心しなければいけない。映画の実例についての著者の所論や感想は「続冬彦集」に集録してあるから読んでもらいたい。姉妹芸術としての俳諧連句《はいかいれんく》については昭和六年三月以後雑誌「渋柿《しぶがき》」に連載した拙著論文【「連句雑俎《れんくざっそ》」】を参照されたい。現在の論文は、これと「二枚折り」になる性質のものである。
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[#地から3字上げ](昭和七年八月、日本文学)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1993(平成5)年2月5日第59刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※【「連句雑俎《れんくざっそ》」】の括弧記号「【】」は底本では「〔〕」が使われています。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年3月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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