人でも自然に踊り出させるのであるが、無声無伴楽映画のかなり律動的な場面を見ても、訓練されない観客はなかなか足拍子手拍子をとるような気分にはならないのである。それで、発声映画において視覚のリズムと照応した物音の律動的駆使によって著しい効果を収めうるのは当然のことである。たとえば、ルービッチの「モンテカルロ」で突進する機関車のエンジンの運動と汽笛の音と伴奏音楽との合成的律動や、「自由をわれらに」における工場の鎚《つち》の音、「人生案内」の線路工事の鉄挺《てってい》の音の使用などのようなのがそれである。これらの雑音だけで、音楽を抜きにしてもおそらくある程度までは同様な律動感を呼び起こされるであろうと想像される。
画面と音響との対位法的な律動的構成の試みが「世界のメロディー」の中に用いられていた。ピアノの鍵盤《けんばん》とピアノの音とが、銅鑼《どら》のクローズアップとその音とに交互にカットバックされるところなどあったように記憶する。この映画は全体としてはむしろ失敗であったと思われるが、しかしこういうような手法の試みとしての価値は認めてやらなければならないであろう。
視覚と聴覚とのもう一つの著しい差違の点がある。それはこの二つの感覚の単義性《アインドイチヒカイト》における相違である。視像の場合でももちろん錯覚によって甲のものを乙と誤認することは可能である。実際この錯覚を利用して、オーバーラップによる接枝法《グラフト》モンタージュで、ハンケチから白ばらを化成する。しかし音の場合はやや趣が違う。少なくもわれわれ目明きの世界においては、一つの雑音あるいは騒音の聴覚によって喚起される心像は非常に多義的なものである。たとえば風の音は衣《きぬ》ずれの音に似通い、ため息の声にも通じる。タイプライターの音は機関銃にも、鉄工場のリベットハマーの音にも類しうる可能性をもっている。これがためにたとえば鵞鳥《がちょう》の声から店の鎧戸《よろいど》の音へ移るような音のオーバーラップは映像のそれよりも容易でありまた効果的でありうる。のみならずいろいろな雑音はその音源の印象が不判明であるがために、その喚起する連想の周囲には簡単に名状し記載することのできない潜在意識的な情緒の陰影あるいは笹縁《ささべり》がついている。音の具象性が希薄であればあるほど、この陰影は濃厚になる。それだから、名状し難いいろいろな心持ちのニュアンスの象徴としては音のほうが画像よりもいっそう有力でありうるということになる。
たとえば「人生案内」の最後の景において機関車のほえるようなうめくような声が妙に人の臓腑《ぞうふ》にしみて聞こえる。「パリの屋根の下」で二人の友がけんかをしようとするときに、こわれたレコードのガーガーと鳴り出すその非音楽的な不快な騒音が異常に象徴的な効果をもって場面のやまを頂上へと押し上げる。
象徴的であるがゆえにまた音響はライトモチーヴとしても有効に使用される。「モロッコ」における太鼓とラッパ、「青い天使」における時鐘の音などがそれである。このあとの映画で、不幸なるラート教授が陋巷《ろうこう》の闇《やみ》を縫うてとぼとぼ歩く場面でどことなく聞こえて来る汽笛だかなんだかわからぬ妙な音もやはりそういう意味で使われたものであろう。運命ののろいの声とでもいうような感じを与えるものである。
俳諧連句《はいかいれんく》においては実に巧妙にこれら音響のモンタージュ手法が採用されている。前掲「灰汁桶《あくおけ》」の句ではしずくの点滴の音がきりぎりすの声にオーバーラップし、「芭蕉《ばしょう》野分《のわき》して」の句では戸外に荒るる騒音の中から盥《たらい》に落つる雨漏りの音をクローズアップに写し出したものである。またたとえば芭蕉《ばしょう》は時鳥《ほととぎす》の声により、漱石《そうせき》は杭《くい》打つ音によって広々とした江上の空間を描写した。「咳声《しわぶき》の隣はちかき縁づたい」に「添えばそうほどこくめんな顔」は非同時性《アシンクローネ》モンタージュであり、カメラの回転追跡(Nachpanoramieren)である。こういう例をあげれば際限はない。他日適当の場所で細説したいと思う。
録音と発音の機械的改良が進展して来る一方でまたトーキーファンの聴覚が訓練されて来れば、発声映画の可能性はさらに拡張されるであろう。点滴の音によってその室の広さを感じ、雷鳴の響きによって山の近さを感じることも可能になるであろう。
ともかくも光像と音響は単に並行的に使用さるべきものではなく、対位法的、調音的に編集さるべきものである。並行的使用は両方の要素を相殺し、対位法的編成は二つのものを生かし強調するのである。
有色映画
音声を得た映画がさらに色彩を獲得することによっていかなる可能性を展開するかという問題がある。
無声映画の時代にフィルムを単色に染めることによってあるいは月夜、あるいは火事場の気分を出したことがあった。その後有色写真のいろいろな方法が案出されて、「テクニカラー」式有色映画の示す程度までは進歩したが、その色彩はまだきわめて単調でなまなましくて、かろうじて安物の三色版の水準にしか達していない。それがためにかえって画面の明暗の調子を攪乱《かくらん》し減殺し、そうして過度の刺激によって目を疲らせるばかりであるから、現在のところでは芸術的には全く低級な単なるノヴェルティに過ぎないと言わなければならない。
視覚的映画に聴覚的な音響を付加することは本質的に異なる別の次元《ディメンション》を新たに増加することであるが、色彩の付加は単に視覚的なものの属性の補充に過ぎない。それだから、たとえば色彩再現の科学的技術がいかに発達したとしても、それがために発声映画がもたらしたほどの根本的な革命が起ころうとは思われない。
色彩はその使用が適切でなければ視覚的映像の効果を補充するよりもむしろ減殺するのは何ゆえかというと、色彩のために明暗の調子が弱められて画面の深さが浅くなり従って平板に見えやすくなる。これは西洋画をけいこした人のいずれもが経験したことであろう。
しからば有色映画は全然見込みのないものであるかというと、そうは断言できない。もしも将来天才的監督によって適当なる色彩的モンタージュの方法が案出され、明暗を殺さずにそれを生かすような色彩を駆使して、これを音響と対位的に編成することができればその結果はあるいは大いに見るべきものであるかもしれない。
色彩のモンタージュはいかにすべきかについてはやはり東洋画ことに宗達《そうたつ》光琳《こうりん》の絵や浮世絵は参考になるであろう。俳諧連句《はいかいれんく》もまたかなりの参考資料を提供するであろう。たとえば七部集炭俵の中にある「雪の松おれ口みればなお寒し」「日の出るまえの赤き冬空」「下肴《げざかな》を一舟浜に打ち明けて」の三連などは色彩的にもかなりおもしろいものである。ともかくも一つ一つの画面にその基調となるべき色彩的な中心映像を確定しそれを生かすためにその周囲の色彩を殺してしまうという、色彩的カッティングを行ない、そうして、その中心的な色彩をモンタージュ的な連結推移のリズムによって進行させて行かなければなるまいと思われる。出て来る画面も出て来る画面もみんな一様に単に絵の具箱をぶちまけたような、なんのしめくくりもアクセントもないものでは到底進行の感じはなくただ倦怠《けんたい》と疲労のほか何物をも生ずることはできないであろう。
立体映画
二次元的平面映像の代わりに深さのある立体映像を作ろうという企てはいろいろあるがまだ充分に成効したものはない。特別なめがねなどをかけない肉眼のままの観客に、広い観覧席のどこにいても同じように立体的に見えるような映画を映し出すということにはかなりな光学的な困難があるのである。しかし、そういう技術上の困難は別として、そういう立体的な映画ができあがったとしたら、それは映画芸術にいかなる反応を生ずるであろうか。
実際の空間におけるわれわれの視像の立体感はどこから来るかというに、目から一メートル程度の近距離ではいわゆる双眼視《バイノキュラーヴィジョン》によるステレオ効果が有効であるが、もっと遠くなるとこの効果は薄くなり、レンズの焦点を合わせる調節《アコンモデーション》のほうが有効になって来る。しかしずっと遠くなると、もうそれもきかなくなって、事実上は単に無限距離にある平面への投射像を見ていると同等である。たとえば歌舞伎座《かぶきざ》の正面二階から舞台を見るような場合、視像の深さはほとんどなくなっているはずであるが、われわれは俳優の運動によって心理的に舞台の空間を認識する。この錯覚を利用して映画の背景をごまかすグラスウォークと称する技術が存在するくらいである。
映画の場合には双眼視的効果だけはないのであるが、レンズの焦点が深さをもつという事から来る立体的な効果は目の場合と本質的に変わったことはない。窓わくの花に焦点を合わせれば窓外の遠い樹木はぼやけ、樹木に合わせれば花はぼやける。この効果をうまく使えば現在のままでも立体的な効果を生じ得ないことはないはずである。カメラの焦点が近い花から遠くの木へ移動すればスクリーンの観客はちょうど遠くへ目を移す感じがするはずである。このような方法はしかし現在の映画ではあまり使われていない。これは観客の目がまだそこまで訓練されていないためであろう。
現在の平面映画は、前にも一度述べたように立体的な舞台演技を見るよりもかえっていっそう立体的であるという逆説的なことが言われうる。すなわちカメラの任意な移動によって観客は空間内を自由に移動し、従って観客自身画面の中へ入り込むと同等な効果を生ずるからである。
このようにカメラの焦点とその位置および視角の移動によって現在の映画は、事実上、少なくも心理的には立体的実体的な空間を征服しているのである。それでこの上に多大の苦心をしていわゆる立体映画がようやく成功したとしても、その効能はおそらくそう顕著なものではあるまいという気がする。
現在の発明家のねらっている立体映画はいずれもステレオスコピックな効果によるものであるが、誇張されたステレオ効果はかえって非常に非現実的な感じを与えるということは、おもちゃの双眼実体鏡で風景写真をのぞいたり、測遠器《テレメーター》で実景を見たりする場合の体験によって知られることである。それでいわゆる立体映画ができると、われわれの二つの目の間隔が急に突拍子もなくひろがったと同様な不自然な異常な効果を生ずることになり、従って映像の真実性が著しく歪曲《わいきょく》することになるのではないかと想像される。
ともかくも、現在の映画のスクリーンが物理的に平面だから映画には心理的にも「深さ」がないという考えは根本的の誤謬《ごびゅう》であって、この誤りを認証した上では立体映画なるもののもたらしうべき可能性の幅員はおのずから見積もり得られるであろうと思う。
人工映画
実在の人間や動物や家屋や景色や、あるいは実在なものの代用をするセットの類をショットの標的とする普通の映画のほかに、全くこれら実在のものを使わずそのかわりに黒い紙を切り抜いたシルエットの人形と背景を使った「アクメード王子の冒険」や、わが国特産の千代紙人形映画や、またミッキーマウスやうさぎのオスワルドやあるいはビンボーなどというおとぎ話的ヒーローを主題とした線画の発声漫画のごときものがある。まずい名称であるがかりにこれらを人工映画という名前で一括することにする。
これらの人工映画のもつ特徴は、これらの単純なる影や線のリズミカルな活動によってそこに全く特別な新しい世界を創造するという可能性の中に存する。シルエットの世界には遠い遠い過去の人生の幻影といったようなものの笹《ささ》べりが付帯している。ここから実物の写真では表現し難い詩が生まれ出る。また近ごろの漫画的映画の喜ばれるゆえんは、夢幻的な雰囲気《ふんいき》の中に有りうべからざる人間
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