である。この結合によって生じるものはもはや決して「花」ではない全然別の次元の世界に属するものであり、そうして、それはただその二つあるいは三つの花のモンタージュによってのみ現わされうるものである。それでこそある人のある日に生けたささげと女郎花《おみなえし》と桔梗《ききょう》と青竹筒は一つの芸術的創造のモンタージュ的視像となりうるのである。
生け花に限らず、造園でも同様である。砂を敷いた平庭に数個の石を並べるだけでもその空間的モンタージュのリズムによって、そこに石の言葉でつづられた、しかも石によってのみつづられうる偉大なる詩が生じるのである。また一枚の浮世絵からでもわれわれはいろいろなモンタージュの手法を発見するであろう。エイゼンシュテインは特に写楽《しゃらく》のポートレートを抽出して、強調された顔の道具の相剋的《そうこくてき》モンタージュを論じているが、われわれは広重《ひろしげ》でも北斎《ほくさい》でも歌麿《うたまろ》でもそれぞれに特有な取り合わせの手法を認めることができるであろう。樽《たる》の中から富士を見せたり、大木の向こうに小さな富士を見せたりするシリーズは言わば富士をライトモチーヴとしたモンタージュの系列である。
こういう意味において映画というものの一つのプロトタイプとでも言わるべきものは絵巻物の類である。これは空間的であるのみならず、またいくぶん時間的である点においていっそう映画に接近するのである。たとえば道成寺縁起《どうじょうじえんぎ》という一つのテーマがあり、それの内容となるべきひとくさりのグロテスクでエロチックでまた宗教的なストーリーがある。絵巻物の画家は、そのストーリーから一つのシナリオを作らなければならない。まずいかにしてヒーローとヒロインを「紹介」すべきか、全編をいくつの場面に分割すべきか、一つ一つの場面にいかなる造型的視覚的素材を用ゆべきかを考えなければならない。すなわち物語を「モンタージュ画像《ビルダー》」の言葉に翻訳しなければならない。この際における創作的過程は映画監督のそれとかなりまで類似した点をもつであろう。道成寺の場合にはまた、初期の映画で常套的《じょうとうてき》に行なわれた「追っ駆け」を基調とする構成の趣があると言われよう。
映画の場合に甲の場面から次の乙景に移る際にいわゆる溶暗溶明を用いることがある。絵巻物ではそのかわりに雲や水や森や山の模糊《もこ》たる雰囲気《ふんいき》が用いられる。ある場合には紙面の上下に二つの場面の終わりと始めとが雲煙を隔ててオーバーラップの形で現われることもあるであろう。今手近に適切な実例をあげることはできないが、おそらくこれらの絵巻物の中から「対照」「譬喩《ひゆ》」「平行」「同時」等いろいろのモンタージュ手法に類するものを拾い出すことも可能であろうと思われる。
映画における字幕サブタイトルに相当するものすら、ある絵巻物には書き込まれてあるのも興味あることである。
絵巻物の一画面は言わば静的である。その静的な一画面から次の画面への推移のリズムによって始めてそこに動的な効果を生じる。しかし映画の場合でもたとえばドブジェンコの「大地」などはほとんど静的な画面のモンタージュが多い。有名な「ポチョムキン」の市街砲撃の場面で、石のライオンが立ち上がって哮吼《こうこう》するのでも、実は三か所で撮《と》った三つの石のライオンの組み合わせに過ぎないということである。
このように静的なものの律動的配合によってさえ非常に動的な陪音を生じうるのであるから、動的なものの結合からさらに高次元的に動的な効果が生まれうるのは当然である。たとえば「アジアの嵐《あらし》」の最後の巻に現われる、嵐の描写のごときがそれである。
これに反して拙劣なるモンタージュは、動的な画像の単調無味なる堆積《たいせき》によってかえって観客のあくびを促すような静的なものを作り出すことも可能である。下手《へた》な剣劇の立ち回りがそれであろう。
エイゼンシュテインは、日本の文化のあらゆる諸要素がモンタージュ的であると論じ、日本の文字でさえも(?)、口と犬とを合わせて吠《ほ》えるというようにできあがっていると言い、また歌舞伎《かぶき》についても分解的演技の原理という言葉を使って、役者の頭や四肢《しし》の別々な演技がモンタージュ的に結合されるというふうに解釈した。この方法を応用したのが近ごろ封切りされた「人生案内」のコリカの母の死の場合だと言われている。
彼はまた短歌や俳諧《はいかい》を論じて「フレーセオロジーに置き換えられた象形文字」であると言い、二三の俳句の作例を引いてその構成がモンタージュ構成であると言っている。
私はかつて「思想」や「渋柿《しぶがき》」誌上で俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常に類似したものであるということを指摘したことがある。その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。おそらく彼はほんとうの連句については何事も知らないからであろう。
映画と連句
あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。
いわゆる発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているものである。しかしたとえば歌仙式《かせんしき》連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その「細胞」である。もちろんその一つ一つはそれぞれ一つの絵である。しかし単にそれらの絵が並んでいるというだけでは連句の運動感は生じない。芭蕉《ばしょう》が「たとえば哥仙《かせん》は三十六歩なり、一歩もあとに帰る心なく、行くにしたがい、心の改まるはただ先へ行く心なればなり。」と言っている、その力学的な「歩み」は一句から次の句への移動の過程にのみ存する。
その移動のモンタージュ的手法はすなわち付け句の付け方であっていわゆる、においとか響きとか位とかおもかげとかいう東洋的な暗示的な言葉で現わされているのであるが、これらは畢竟《ひっきょう》いずれも二つの連接句のおのおのに付属した二つの潜在的心像がいかなる形において連鎖を作るかというその様式の分類にほかならないのである。たとえば「くれ縁に銀|土器《かわらけ》を打ちくだき」に付けて「身ほそき太刀《たち》のそるかたを見よ」とする。この付け方を「打てば響くごとし」と評してあるが、試みに映画の一場面にこの二つのショットを継起せしめたと想像すれば、その観客に与える印象はおそらく打てば響くがごとくであるに相違ない。これをたとえば「爆発。ゆらぐ石門」「石のライオンが目をさまし吼《ほ》えておどり上がる」という連鎖と比べてどこに本質的の差違があるか。「思い切ったる死に狂い見よ」「青天に有明月《ありあけづき》の朝ぼらけ」と付けたモンタージュと、放免状を突きつけられた囚人の画像の次に「春の雪解け川」を出した付け合わせと、情は別でも、手法においてどれだけの差別があるか。
映画でしばしば用いられる推移の手段としての接枝的連接法《コンチニュイティ・グラフト》とも呼ばれる常套的《じょうとうてき》手法がある。たとえば蓄音機円盤が出勤簿レジスターの円盤にオーバーラップするとか、あるいはしわくちゃのハンケチを持った手を絞り消して絞り明けると白いばらの花束を整える手に変わる。あるいは室内のトランクが汽車の網棚《あみだな》のトランクに移り変わるような種類である。ところが、連句ではこれに似たことがしばしば行なわれる。たとえば「僧やや寒く寺に帰るか」「猿引《さるひ》きの猿と世を経《ふ》る秋の月」では僧の姿が猿引きの猿にオーバーラップ的に推移するのである。
映画で、まず群集を現わし、次にカメラを近づけてその中のヒーローを抽出し、クローズアップに映出して「紹介」する。連句でもたとえば、「入りごみに諏訪《すわ》の涌湯《わきゆ》の夕まぐれ」「中にもせいの高い山ぶし」は全くこの手法によったものである。
映画で同時に別々の場所で起こっている事がらの並行的なモンタージュによって特殊の効果を収める。「餅《もち》作るならの広葉を打ち合わせ」という付け句を「親と碁をうつ昼のつれづれ」という前句に付けている。座敷の父とむすこに対して台所の母と嫁を出した並行であり、碁石打つ手と柏《かしわ》の葉を並べる手がオーバーラップするのである。この二つの場面のモンタージュによってわれわれは一つの全体としての家庭の雰囲気《ふんいき》を実感させられるのである。
映画の光学的映像より成る一つ一つのショットに代わるものが、連句では実感的心像で構成された長句あるいは短句である。そうしてこれらの構成要素はそのモンタージュのリズムによってあるいは急にあるいはゆるやかなる波動を描いて行く、すなわち音楽的進行を生ずるのである。
映画の一つのショットは音楽の一つの楽音に比べるよりもむしろ一つの旋律にたとえらるべきものである。それがモンタージュによって互いに対立させられる関係は一種の対位法的関係である。前のショットの中の各要素と次のショットの各要素との対位的結合によってそこに複雑な合成効果を生ずるのである。連句の場合でもまさにそのとおりで前句と付け句とは心像の連鎖のコントラプンクトとしてのみその存在価値を有するものである。
このようにして連句の運動が進行するありさまはある度までたとえばソナタのごとき楽曲の構造に類する。この比較についてはかつて雑誌「渋柿《しぶがき》」誌上で細論したからここには略するが、それと全く同じことが映画の律動的編成についても言われるのである。そうして序破急と言いあるいは起承転結と称する東洋的モンタージュ手法がことごとく映画編集の律動的原理の中にその同型《ファクシミレ》を見いだすのである。
要するにこれらのモンタージュの要訣《ようけつ》は、二つの心像の識閾《しきいき》の下に隠れた潜在意識的な領域の触接作用によってそこに二つのものの「化合物」にも比較さるべき新しいものを生ずるということである。
識閾の上層だけでつながったものは、つまり一つの静的な像である。いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで「歩み」はない。同様に映画においても、たとえば単調なる「チャンバラ」の場面はいくら続いても、それは結局ただ一つのショットとしての効果しかない。これに反してたとえ識閾の上では単調な画面を繰り返していても、その底を流れる情緒の加速運動があれば観客は知らず知らずつり込まれ引きずられて行く。たとえば「パリの屋根の下」で町の歌い手が手風琴をひいて歌っている。その歌い手と聴衆が繰り返し繰り返し映写される。しかしその巧妙な律動的なモンタージュによって観衆の心の中の奥底には一つの葛藤《かっとう》がだんだん発展し高調されて行くのである。また同じ映画でダンス場における踊る主人公とこれをねらう悪漢との交互的律動的モンタージュもこれと全く同様である。これは二つの画面の接触作用によって観客の心に生ずる反応作用をその自然のリズムに従って誘導して行くのである。それでこのモンタージュのリズムが観客の期待のリズムに共鳴するときにはじめて最大の効果を収めうるので、これは音楽の場合と全く同様である。
このように、映画の画面の連結と連句の句間の連結とは意識の水準面の下で行なわれるときにはじめて力学的な意味をもつのである。たとえば水面に浮かんでいる睡蓮《すいれん》の花が一見ぱらぱらに散らばっているようでも水の底では一つの根につながっているようなものである。
一つ一つの意識的な具象からは識閾《しきいき》の下に無数の根を引いており、その根の一つ一つはまた他のたくさんの具象の根と連結されている。かようにして天地間の万象は複雑きわまる網目によって無限多義的に連関している。甲から乙に移る連絡道路だけでも無限に多数に存する。それらの通路の中には国道もあり間道もあり、また人々によって通い慣れた道と、そうでな
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