と、針で突いたほどにつぼめようと自在である。
 こういうふうに考えてみると漫画の将来にはまだいろいろな未発見の領土が隠れていそうに思われる。ただ現在のビンボー類似の作品はあまりに荒唐無稽《こうとうむけい》な刺激を求め過ぎて遠からず観客の倦怠《けんたい》を来たすおそれがありはしないかと思われる。
 普通の現実的映画が散文であるとすれば、漫画は詩であり歌でありうる、むしろそうあるべきものである。今の漫画は俳諧《はいかい》ならば談林風のたわけを尽くしている時代に相当する、遠からず漫画の「正風《しょうふう》」を興すものがかえって海のかなたから生まれはしないかという気もする。ほんとうはこれこそ日本人の当然手を着けるべき領域であろう。

     映画と国民性

 すべての芸術にはそれぞれの国民の国民的潜在意識がにじみ出している。映画でもこれは顕著に滲透《しんとう》している。アメリカ映画はヤンキー教の経典でありチューインガムやアイスクリームソーダの余味がある。ドイツ映画には数理的科学とビールのにおいがあり、フランス映画にはエスカルゴーやグルヌイーユの味が伴なう。ロシア映画のスクリーンのかなたにはい
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