のいかなる撮影が効果的であるかを判断するためには映画家は「カメラの目」をもつことが必要である。プドーフキンは爆発の光景を現わすのに本物のダイナマイトの爆発を撮《と》ってみたがいっこうにすごみも何もないので、試みにひどく黒煙を出す炬火《たいまつ》やら、マグネシウムの閃光《せんこう》やを取り交ぜ、おまけに爆発とはなんの縁もない、有り合わせの河流の映像を插入《そうにゅう》してみたら、意外にすばらしい効果を生じて、本物の爆発よりははるかに爆発らしい爆発ができたそうである。また、エイゼンシュテインは港の埠頭《ふとう》における虐殺の残酷さを見せるために、階段をころがり落ちる乳母車《うばぐるま》を写した。
「彫刻家が大理石とブロンズで考えるように、映画家はカメラとフィルムで考えそうして選択することが第一義である。」
役者の選択についても同様である。舞台の名優は必ずしもフィルムの名優ではない。ロシア映画ではただのどん百姓が一流の名優として現われる。アメリカふうのスター映画でさえも、画面に時々しか顔を出さないエキストラのタイプの選択いかんによって画面の効果は高調されあるいは減殺される。
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