心持ちのニュアンスの象徴としては音のほうが画像よりもいっそう有力でありうるということになる。
たとえば「人生案内」の最後の景において機関車のほえるようなうめくような声が妙に人の臓腑《ぞうふ》にしみて聞こえる。「パリの屋根の下」で二人の友がけんかをしようとするときに、こわれたレコードのガーガーと鳴り出すその非音楽的な不快な騒音が異常に象徴的な効果をもって場面のやまを頂上へと押し上げる。
象徴的であるがゆえにまた音響はライトモチーヴとしても有効に使用される。「モロッコ」における太鼓とラッパ、「青い天使」における時鐘の音などがそれである。このあとの映画で、不幸なるラート教授が陋巷《ろうこう》の闇《やみ》を縫うてとぼとぼ歩く場面でどことなく聞こえて来る汽笛だかなんだかわからぬ妙な音もやはりそういう意味で使われたものであろう。運命ののろいの声とでもいうような感じを与えるものである。
俳諧連句《はいかいれんく》においては実に巧妙にこれら音響のモンタージュ手法が採用されている。前掲「灰汁桶《あくおけ》」の句ではしずくの点滴の音がきりぎりすの声にオーバーラップし、「芭蕉《ばしょう》野分《のわき》して」の句では戸外に荒るる騒音の中から盥《たらい》に落つる雨漏りの音をクローズアップに写し出したものである。またたとえば芭蕉《ばしょう》は時鳥《ほととぎす》の声により、漱石《そうせき》は杭《くい》打つ音によって広々とした江上の空間を描写した。「咳声《しわぶき》の隣はちかき縁づたい」に「添えばそうほどこくめんな顔」は非同時性《アシンクローネ》モンタージュであり、カメラの回転追跡(Nachpanoramieren)である。こういう例をあげれば際限はない。他日適当の場所で細説したいと思う。
録音と発音の機械的改良が進展して来る一方でまたトーキーファンの聴覚が訓練されて来れば、発声映画の可能性はさらに拡張されるであろう。点滴の音によってその室の広さを感じ、雷鳴の響きによって山の近さを感じることも可能になるであろう。
ともかくも光像と音響は単に並行的に使用さるべきものではなく、対位法的、調音的に編集さるべきものである。並行的使用は両方の要素を相殺し、対位法的編成は二つのものを生かし強調するのである。
有色映画
音声を得た映画がさらに色彩を獲得することによっていかなる可能性を展
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