のである。薄暮の縁側の端居《はしい》に、たまたま眼前を過ぎる一匹の蚊が、大空を快翔《かいしょう》する大鵬《たいほう》と誤認されると同様な錯覚がはたらくのである。
いっそうおもしろいのは時間の逆行による世界像の反転である。いわゆるカットバックの技巧で過去のシーンを現在に引きもどすことが随意にできるのもおもしろくないことはないが、これは言わば「フィルムの記憶」の利用であって、人間の脳の記憶の代用に過ぎない。しかし真に不思議なのはフィルムの逆行による時の流れの逆流である。たとえば燃え尽くした残骸《ざんがい》の白い灰から火が燃え出る、そうしてその火炎がだんだんに白紙や布切れに変わって行ったりする。あるいはまた、粉々にくずれた煉瓦《れんが》の堆積《たいせき》からむくむくと立派な建築が建ち上がったりする。
昔ある学者は、光の速度よりもはやい速度で地球から駆け出せば宇宙の歴史を逆《さか》さまにして見られるというような寝言を言った。しかしこのような超光速度はできない相談であるし、それができたとしてもやはり歴史の逆さまは見られそうもない。しかし映画の時間は確かにある意味では立派に逆転し、従って歴史はほんとうに掛け値なしに逆さまに流れる。厳密に言えば、時間の連続な流れの中から断続的に規則正しい間隔の断片を拾い上げたものを逆の順序に展開するのであるが、われわれの視覚的効果の上ではまさしく時の逆行となるのである。
時の逆行によって物の順序が逆になり原因と結果が入り代わるというだけではこの重大な変転の意義は説き尽くされない。
時が逆行しても本質的に変わらないものは、完全な週期的運動だけである。しかし、そんなものは実際の世界にはどこにもない。いかなる振り子の運動でも若干のエネルギーの消耗《しょうもう》がある限りその運動は必ず減衰して行くはずである。それが時を逆転した映画の世界では反対に、静止した振り子がだんだん揺れ出し次第に増幅するのである。もっと一般に言えば宇宙のエントロピーが次第に減少し、世界は平等から差別へ、涅槃《ねはん》から煩悩《ぼんのう》へとこの世は進展するのである。これは実に驚くべき大事件でなければならない。もっと言葉を変えて言えば、すべての事がらは、現世で確率《プロバビリティ》の大きいと思われるほうから確率の僅少《きんしょう》なほうへと進行するから不思議でないわけにはゆか
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