ないのである。たとえばわれわれの世界では桶《おけ》の底に入れた一升の米の上層に一升の小豆《あずき》を入れて、それを手でかき回していれば、米と小豆は次第に混合して、おしまいには、だいたい同じような割合に交じり合うのであるが、この状況を写した映画のフィルムを逆転する場合には、攪拌《かくはん》するに従って米と小豆《あずき》がだんだんに分離して、最後にはきれいな別々の層に収まってしまうのである。このような熱力学第二方則の完全な否定は、実にわれわれ固有の世界観を根底よりくつがえすに足るものである。
 時を逆行させることによって起こるもう一つの不思議は、決定的の世界が不決定になることである。たとえば摩擦のある撞球台《どうきゅうだい》の上で球《たま》をころがすとする。球を突き出したときの初速度が与えられればその後に球の動き行くべき道程は予言され、それが最後に静止する位置も少なくも原理的には立派に予報されるはずである。しかるに逆転映画の世界で最初に静止している球が与えられている場合に、どうして、まただれが、その後の運動を少しでも予測しうるであろうか。可能な道は無限に多様であって、その中の一つを指定すべき与件は一つもないのである。
 これと反対に、現世で予測のできない事がらが逆転映画の世界では確定的になるから妙である。たとえば一本の鉛筆を垂直に机上に立てて手を離せば鉛筆は倒れるが、それがどの方向に倒れるかはいわゆる偶然が決定するのみで正確な予言は不可能である。しかし時を逆行させる場合にはいろいろな向きに倒れた鉛筆がみんな垂直に起き直るから事がらは簡単になる。
 時の逆行を現実化する映画の世界は、これと比較することによってわれわれの世界像における「時」の意義を徹底的に理解させるに格好な対照となるのである。そういう比較によって始めてわれわれの哲学も宗教も科学もその完全な本体を現わすであろう。
 これほどに深い意義のある逆転映画を見せられる機会があまりにもまれなのは遺憾なことである。この驚くべき技巧がもっともっと自由に応用され、観客が次第にそれに慣らされて、そうしてそれに固有な効果を十二分に感受することのできる日が来るとしたら、その日から人間の子孫にとっては全く新しい世界が生まれるであろう。
 映画における「時」について、もう一つ忘れてならないことは、フィルムの記録が連続的でなくて断片の接
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