まく舵《かじ》を取って順序よく巻きついて行く手ぎわは見ものである。虎のほうでも徐々に胴のまわりに巻きつくのを、どう防御していいか見当がつかないので困るらしい。だんだんに締めつけられて、虎は息苦しそうにはあはあとあえぐのであるが、それでも少しもうろたえたような、弱ったような様子の見えないのはさすがにえらい。一声高く咆哮《ほうこう》しておどり上がりおどり上がると、だだっ子の兵児帯《へこおび》がほどけるように大蛇の巻き線がゆるみほぐれてしまう。しかし、虎もさすがに、「これは少し相手が悪い」といったようなふうで、あっさりと見切りをつけて結局このけんかはもの別れになるらしい。蛇のほうはやはり受動的であって、こっちから追っかけて行って飽くまで勝負を迫るほどの執念はなさそうである。
このような大蛇と虎の闘争が実際にしばしばジャングルの中で自然的に行なわれるか、どうか、少し疑わしく思われる。自然界に闘争の行なわれる場合は、どちらかがどちらかを倒して食ってしまうか、さなくば双方が死んでしまわなければ始末がつかないように思われる。始末のつかない闘争は勢力のむだな消費であり、自然界に行なわれる経済の方則に合わないような気がする。それで、この映画の大蛇と虎のけんかはやはり人間の仕組んでやらせた見世物興行ではないかという気がしないでもない。しかしこの映画を見ている時には、そんな理屈などはどうでもよいほどに白熱的な興奮と緊張を感じさせられる。たとえ興行者のほうでは芝居のつもりであったとしても、動物のほうでは芝居気などは少しもない正真正銘の命がけの果たし合いだからである。
ジャングルの住民は虎《とら》でも蛇《へび》でもなんでもみんな生きるために生まれて来ているはずである。ところが、それが生きるために互いにけんかをして互いに殺し合う。勝ったほうは生きるが負かされた相手は殺される。そうして、その時には勝ったほう殺したほうも、いつまた他のもっともっと強い相手に殺されるかもわからない。してみると、彼らは殺されるために生まれて来たのだとも言われる。ここにジャングルの生命の深いなぞがあり、これと連関して人生のなぞがあり、社会のなぞがある。このジャングルのなぞが解かれる日までは、われわれはそう軽々しくいろいろなイズムを信用して採用するわけにはゆかないであろうという気がするのである。
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