ふ。成程あのガラ/\の音ぐらゐでは三百六十五日浚つて見たところで梓川《あずさがは》がたゞの一ト雨に押し流してくる砂泥をすくひ上げるにも足りないのではないかといふ気がするのであつた。兎[#「兎」は底本では「免」]に角この浚渫機械の小屋と土手は恐らくこの美しい上高地の絵の上にとまつた蠅か蜘蛛のやうな気のするものである。
夜に入つて雨が又強くなつて梓川の水音も耳立つて強くなつた。突然強風が吹起こつて家を揺がし雨戸を震はすかと思ふと、それが急に丸で嘘を云つたやうに止んで唯沛然たる雨声が耳に沁みる。又五分位すると不意に思出したやうに一陣の風がどうつと吹きつけてしばらくは家鳴り震動する、又ぴつたりと止む。すると又雨の音と川瀬のせゝらぎとが新たな感覚をもつて枕に迫つて来る。
高い上空を吹いてゐる烈風が峯に当つて渦流をつくる。その渦が時々風陰のこの谷底に舞ひ降りて来るので、その度毎にかうした突風が屋を揺るがすのではないかと思はれた。
夜が明けても雨は小止みもなく降り続いた。松本までの車を雇つて山を下りて来ると、島々の辺から雨が止み、汽車が甲州路に入ると雲が破れて日光が降りそゝいだ。
雨の上高地は矢張り美しかつた。
中の湯あたりから谷が迫つて景色が峻しく荒涼な鬼気を帯びて来る。それが上高地へ来ると実に突然になごやかな平和な景色に変化する。鬼の棲家を過ぎて仙郷に入るやうな気がして昔の支那人の書いた夢のやうな物語を想出すのである。シー、ピー、スクラインがパミールの岩山の奥に「幸福の谷」を発見した記事を読んだときに所謂武陵桃源の昔話も全くの空想ではないと思つたことであつたがその武陵桃源の手近な一つの標本を自分は今度雨の上高地に見出したやうである。
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「登山とスキー」
1935(昭和10)年10月
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年5月18日作成
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