気もする。有名な河童橋《かつぱばし》は河風が寒く、穂高の山塊はすつかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香ひがするが、そこから六百山の麓に沿うて二十余町の道の両側にはさま/″\な喬木が林立してゐる、それが南国生れの自分にはみんな眼新しいものばかりのやうな気がする。樹名を書いた札のついてゐるのは有難いが中々一度見た位では覚えられさうもない。
池の方へ路の分れる処に茶店がある。そこで茶をのんで餅をつまんでゐたら、同宿の若い夫婦連れがあとからはいつて来た。腰を下ろしたと思ふと御主人が「や、しまつた、財布を忘れた」と云つて懐を撫でまはしてゐる。失礼ではあつたが自分達の盆の餅をすゝめて、さうして此人達から新築のホテルに関する噂を聞いた。この若く美しい夫人がスクリーンで見る某映画女優と区別の出来ない程に実によく似てゐた。
橋を渡る頃は又雨になつて河風に傘を取られさうであつた。大きな丸太を針金で縛り合せた仮橋が生ま/\しく新しいのを見ると、前の橋が出水に流されてそのあとへ新造したばかりであらうかと思はれた。雨と一緒に横しぶきに吹きつける河霧がふるへ上がるやうに寒かつた。
河向ひから池までの熊笹を切開いた路はぐしよ/\に水浸しになつて歩きにくかつた。学校の先生らしい一行があとから自分等を追越して行つた。
明神池は自分には別に珍らしい印象を与へなかつた。何となく人工的な感じのする点がこの池を有名にしてゐるかと思はれた。併し、紅葉の季節に見直すといゝかも知れない。同じ道を引返して帝国ホテルで昼飯を食つてから、今度は田代池といふのを見に行つた。赤※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]の浮いた水には妙に無気味な感覚があつて、何処かの草むらから錦の色をした蛇でも這出しさうな気がした。かうしたじめ/\した池沼のほとりの雰囲気はいつも自分の頭の何処かに幼ない頃から巣くつてゐる色々な御伽噺中の妖精を思出すやうである。
大正池の畔に出て草臥れを休めてゐると池の中から絶えずガラ/\/\何かの機械の歯車の轢音らしいものが聞こえて来る。見ると池の真中に土手のやうなものが突出してゐて、その端の小屋のやうなものの中で何かしら機械が運転してゐるらしい。宿へ帰つて聞いて見ると、県から水電会社への課税のやうな意味で大正池の泥浚へをやらせてゐるのだといふ。ほんの申訳にやつてゐるのだとい
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