烏瓜の花と蛾
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)庭の烏瓜《からすうり》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|夥《おびただ》しい花が咲いて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和七年十月『中央公論』)
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 今年は庭の烏瓜《からすうり》がずいぶん勢いよく繁殖した。中庭の四《よ》ツ目垣《めがき》の薔薇《ばら》にからみ、それから更に蔓《つる》を延ばして手近なさんごの樹を侵略し、いつの間にかとうとう樹冠の全部を占領した。それでも飽き足らずに今度は垣の反対側の楓樹《かえでのき》までも触手をのばしてわたりを付けた。そうしてその蔓の端は茂った楓の大小の枝の間から糸のように長く垂れさがって、もう少しでその下の紅蜀葵《こうしょっき》の頭に届きそうである。この驚くべき征服慾は直径わずかに二、三ミリメートルくらいの細い茎を通じてどこまでもと空中に流れ出すのである。
 毎日|夥《おびただ》しい花が咲いては落ちる。この花は昼間はみんな莟《つぼ》んでいる。それが小さな、可愛らしい、夏夜の妖精《フェアリー》の握《にぎ》り拳《こぶし》とでも云った恰好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこの拳は堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと眼を放していてやや薄暗くなりかけた頃に見ると、もうすべての花は一遍に開き切っているのである。スウィッチを入れると数十の電燈が一度に灯《とも》ると同じように、この植物のどこかに不思議なスウィッチがあって、それが光の加減で自働的に作用して一度に花を開かせるのではないかと思われるようである。ある日の暮方《くれがた》、時計を手にして花の咲くのを待っていた。縁側で新聞が読めるか読めないかというくらいの明るさの時刻が開花時で、開き始めから開き終りまでの時間の長さは五分と十分の間にある。つまり、十分前には一つも開いていなかったのが十分後にはことごとく満開しているのである。実に驚くべき現象である。
 烏瓜の花は「花の骸骨《がいこつ》」とでも云った感じのするものである。遠くから見ると吉野紙《よしのがみ》のようでもありまた一抹の煙のようでもある。手に取って見ると、白く柔らかく、少しの粘りと臭気のある繊維が、五葉の星形の弁の縁辺から放射し分岐して細かい網のように拡がっている。莟んでいるのを無理に指先でほごして開かせようとしても、この白い繊維は縮れ毛のように捲き縮んでいてなかなか思うようには延ばされない。強《し》いて延ばそうとすると千切《ちぎ》れがちである。それが、空の光の照明度がある限界値に達すると、多分細胞組織内の水圧の高くなるためであろう、螺旋《らせん》状の縮みが伸びて、するすると一度にほごれ拡がるものと見える。それで烏瓜の花は、云わば一種の光度計《フォトメーター》のようなものである。人間が光度計を発明するよりもおそらく何万年前からこんなものが天然にあったのである。
 烏瓜の花が大方開き切ってしまう頃になると、どこからともなく、ほとんど一斉に沢山の蛾《が》が飛んで来てこの花をせせって歩く。無線電話で召集でもされたかと思うように一時にあちらからもこちらからも飛んで来るのである。これもおそらく蛾が一種の光度計を所有しているためであろうが、それにしても何町何番地のどの家のどの部分に烏瓜の花が咲いているということを、前からちゃんと承知しており、またそこまでの通路をあらかじめすっかり研究しておいたかのように真一文字に飛んで来るのである。
 初めて私の住居を尋ねて来る人は、たとえ真昼間でも、交番やら店屋などを聞き聞き何度もまごついて後にやっと尋ねあてるくらいなものである。
 この蛾は、戸外がすっかり暗くなって後は座敷の電燈を狙いに来る。大きな烏瓜か夕顔の花とでも思うのかもしれない。たまたま来客でもあって応接していると、肝心な話の途中でもなんでも一向|会釈《えしゃく》なしにいきなり飛込んで来て直ちに忙《せ》わしく旋回運動を始めるのであるが、時には失礼にも来客の頭に顔に衝突し、そうしてせっかく接待のために出してある茶や菓子の上に箔《はく》の雪を降らせる。主客総立ちになって奇妙な手付をして手に手に団扇《うちわ》を振廻わしてみてもなかなかこれが打落されない。テニスの上手な来客でもこの羽根の生えたボールでは少し見当が違うらしい。婦人の中には特にこの蛾をいやがりこわがる人が多いようである。今から三十五年の昔のことであるが或る田舎の退役軍人の家で大事の一人息子に才色兼備の嫁を貰った。ところが、その家の庭に咲き誇った夕顔をせせりに来る蛾の群が時々この芳紀|二八《にはち》の花嫁をからかいに来る、その度《たび》に花嫁がたまぎるような悲鳴を上げ
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