あらゆる動物の習性を研究するのが急務ではないかという気がして来る。
光の加減で烏瓜の花が一度に開くように、赤外光線でも送ると一度に爆薬が破裂するような仕掛も考えられる。鳳仙花《ほうせんか》の実が一定時間の後に独りではじける。あれと似たような武器も考えられるのである。しかし真似したくてもこれら植物の機巧はなかなか六かしくてよく分らない。人間の智慧はこんな些細《ささい》な植物にも及ばないのである。植物が見ても人間ほど愚鈍なものはないと思われるであろう。
秋になると上野に絵の展覧会が始まる。日本画の部にはいつでも、きまって、色々の植物を主題にした大作が多数に出陳される。ところが描かれている植物の種類が大抵きまり切っていて、誰も描かない植物は決して誰も描かない。例えば烏瓜の花の絵などついぞ見た覚えがない。この間の晩、床に這入ってから、試みに宅の敷地内にある、花の咲く植物の数を数えてみた。二、三十もあるかと思って数えてみたら、実際は九十余種あった。しかし帝展の絵に現われる花の種類は、まだ数えてみないが、おそらくずっと少なそうである。
数の少ないのはいいとしても、花らしい花の絵の少ないのにも驚歎させられる。多くの画家は花というものの意味がまるで分らないのではないかという失礼千万な疑いが起るくらいである。花というものは植物の枝に偶然に気紛れにくっついている紙片や糸屑のようなものでは決してない。吾々人間の浅墓《あさはか》な智慧などでは到底いつまでたっても究め尽せないほど不思議な真言《しんごん》秘密の小宇宙なのである。それが、どうしてこうも情ない、紙細工のようなものにしか描き現わされないであろう。それにしても、ずっと昔私はどこかで僧|心越《しんえつ》の描いた墨絵の芙蓉《ふよう》の小軸を見た記憶がある。暁天の白露を帯びたこの花の本当の生きた姿が実に言葉通り紙面に躍動していたのである。
今年の二科会の洋画展覧会を見ても「天然」を描いた絵はほとんど見付からなかった。昔の絵描きは自然や人間の天然の姿を洞察することにおいて常人の水準以上に卓越することを理想としていたらしく見える。そうして得た洞察の成果を最も卑近な最も分りやすい方法によって表現したように思われる。然るにこの頃の多数の新進画家は、もう天然などは見なくてもよい、か、あるいはむしろ可成的《なるべく》見ないことにして、あらゆる素
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