完全に灰になることは確実である。昔の徳川時代の江戸町民は永い経験から割り出された賢明周到なる法令によって非常時に処すべき道を明確に指示され、そうしてこれに関する訓練を十分に積んでいたのであるが、西洋文明の輸入以来、市民は次第に赤ん坊同様になってしまったのである。考えると可笑《おか》しなものである。
 何箇月か何年か、ないしは何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮れに烏瓜の花に集まる蛾のように一時に飛んで来る日があるかもしれない。しかしこの大きな蛾をはたき落すにはうちの猫では間に合わない。高射砲など常識で考えても到底頼みになりそうもない品物である。何か空中へ莫大な蜘蛛《くも》の網のようなものを張ってこの蛾を喰い止める工夫は無いものかと考えてみる。あるいは花火のようなものに真綿の網のようなものを丸めて打ち上げ、それが空中でぱっと烏瓜の花のように開いてふわりと敵機を包みながらプロペラにしっかりとからみ付くというような工夫は出来ないかとも考えてみる。蜘蛛《くも》のあんなに細い弱い糸の網で大きな蝉《せみ》が捕られることから考えると、蚊帳《かや》一張りほどもない網で一台の飛行機が捕えられそうにも思われるが、実際はどうだか、ちょっと試験してみたいような気がするのである。
 子供の時分に蜻蛉《とんぼ》を捕るのに、細い糸の両端に豌豆《えんどう》大の小石を結び、それをひょいと空中へ投げ上げると、蜻蛉はその小石を多分|餌《えさ》だと思って追っかけて来る。すると糸がうまい工合に虫のからだに巻き付いて、そうして石の重みで落下して来る。あれも参考になりそうである。つまりピアノ線の両端に重錘《おもり》をつけたようなものを矢鱈《やたら》と空中に打ち上げれば襲撃飛行機隊は多少の迷惑を感じそうな気がする。少なくも爆弾よりも安価でしかも却って有効かもしれない。
 戦争のないうちは吾々は文明人であるが、戦争が始まるとたちまちにして吾々は野蛮人になり、獣になり鳥になり魚になり、また昆虫になるのである。機械文明が発達するほど一層そうなるから妙である。それで吾々はこれらの動物を師匠にする必要が起って来るのである。潜航艇のペリスコープは比良目《ひらめ》の眼玉の真似である。海翻車《ひとで》の歩行は何となくタンクを想い出させる。ガスマスクを付けた人間の顔は穀象《こくぞう》か何かに似ている。今後の戦争科学者はありと
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