解かれた象
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上野《うえの》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純良|高尚《こうしょう》すぎた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いきさつ[#「いきさつ」に傍点]
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上野《うえの》の動物園の象が花屋敷《はなやしき》へ引っ越して行って、そこで既往何十年とかの間縛られていた足の鎖を解いてもらって、久しぶりでのそのそと檻《おり》の内を散歩している、という事である。話を聞くだけでもなんだかいい気持ちである。肩の凝りが解けたような気がする。
事実はよくわからないが、伝うるところによるとこの象は若い時分に一度かんしゃくを起こして乱暴をはたらいた事があるらしい。それがどういう動機でまたどういう種類の行為であったかを確かめる事ができないのであるが、ともかくも、普通の温順なるべき象としてあるまじき、常規を逸した不良な過激な行為であった事だけは疑いもない事であるらしい。そういう行為をあえてするという事は、すなわち彼が発狂している事の確かな証拠であるとこういう至極もっともらしい理由から、彼は狂気しているという事にきわめをつけられた。その結果として、それ以来はその前後の足を、たしか一本ずつ重い冷たい鉄の鎖で縛られたままで、不自由な何十年かを送って来たのである。
鎖は足に食い込んであの浅草紙で貼《は》っただんぶくろのような足の皮は、そのために気味悪く引きつって醜いしわができていた。当人は存外慣れてしまったかもしれないが、はたで見る目には妙にいたいたしい思いをさせた。いったい夜寝る時には、あの足をどういうふうにして寝るのだろうという事が私にはいつでも起こる疑問であった。事によるとああやって立ったままで眠るのではないかとも考えられるのであった。
檻《おり》の前に集まる見物人の中には、この象の精神の異状を聞き知っているものも少なくなかった。「オイオイ、なるほど変な目つきをしてやあがるぜ」などと話し合っているのを聞いた事もあったが、そう言われればなるほど私にも多少そう思われない事もなかったが、その目つきがはたして正常な正気の象の目つきとどれだけ違うかを確かめる事は私にはできなかった。
果てもない広い森林と原野の間に自在に横行していたものが、ちょっとした身動きすら自由でない窮屈なこういう境遇に置かれて、そして、いくら気の長い、寿命の長い象にしても、十年以上もこうして縛られているのでは、そうそういい目つきばかりもしていられないではないかという気もした。そしていったいなんのために縛られているのか象にはそれがわからない、たとえそれがわかっても、それを言い解くべき言葉を持たないのである。あまりきげんのよい顔もできない道理である。
動物園で長い間気違いとして取り扱われて来た象が、今度花屋敷へ嫁入りする事になった。そして花屋敷の人間が来て相手になってみると、どうもいっこう気違いらしくなくて普通の常識的な象であるという事になったそうである。これは新聞で見た事であるから事実はどうだかわからない。しかしそういう事は事実有りうべき事だろうと思われる。もし事実だとすると、これはどう解釈さるべきものだろう。実際昔発狂していたのがいつのまにか直っていたのであるか、あるいは今でもやはり気違いであるけれどもその時に発作が起こらなかったというだけであるのか、それもあるいはそうかもしれない。しかしまた元来少しも狂気でないものを、誤って狂気と認定されて今日に至ったものかもしれない。万一そうであったとすると象にとってははなはだしき迷惑な事であったと言わなければならない。
この問題に対してなんらかの判断を下しうるためにはまず第一に動物特に象の精神病に関する充分な学識が必要であり、第二にはこの象が狂気と認められるに至った狂暴な行為に関する正確な記録の知識が必要である。第三には彼がそういう行為にいずるに至った動機といきさつ[#「いきさつ」に傍点]について充分な参考材料が必要である。
不幸にして私にはこれらの必要条件のどれもが具備していないから、従って私はこの具体的の場合についてなんらのもっともらしい想像すら下すだけの資格もない。
しかし私はただ一つの有りうべき場合として次のような仮想的の事件を想像してみた。
この象は始めから狂気でもなんでもなかったのである。至極お心よしの純良な性質であった。ただあまりに世間見ずのわがままなおぼっちゃんの象であった。それでこの見知らぬ国へ連れられて来て、わずかの間に、相手になる日本人の気心をのみ込んで卑屈な妥協を見いだすにはあまりに純良|高尚《こうしょう》すぎた性質をもっていたのである。ところがまたこの象を取り扱う人間もまたあいに
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