もある。宅《うち》の裏門を出て小川に沿うて少し行くと村はずれへ出る、そこから先生の家の高い松が近辺の藁屋根《わらやね》や植え込みの上にそびえて見える。これにのうぜんかずらが下からすきまもなくからんで美しい。毎日昼前に母から注意されていやいやながら出て行く。裏の小川には美しい藻《も》が澄んだ水底にうねりを打って揺れている。その間を小鮒《こぶな》の群れが白い腹を光らせて時々通る。子供らが丸裸の背や胸に泥《どろ》を塗っては小川へはいってボチャボチャやっている。付け木の水車を仕掛けているのもあれば、盥船《たらいぶね》に乗って流れて行くのもある。自分はうらやましい心をおさえて川沿いの岸の草をむしりながら石盤をかかえて先生の家へ急ぐ。寒竹の生けがきをめぐらした冠木門《かぶきもん》をはいると、玄関のわきの坪には蓆《むしろ》を敷き並べた上によく繭を干してあった。玄関から案内を請うと色の黒い奥さんが出て来て「暑いのによう御精が出ますねえ」といって座敷へ導く。きれいに掃除《そうじ》の届いた庭に臨んだ縁側近く、低い机を出してくれる。先生が出て来て、黙って床の間の本棚《ほんだな》から算術の例題集を出してくれる
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