咲かないでも死んでしまうね」といったら妻は「マア」といったきり背をゆすぶっている。坊がまねをして「マア」という。二人で笑ったら坊もいっしょに笑った。そしてまた芭蕉の花をさして「モヽモヽ」といった。
六 野ばら
夏の山路を旅した時の事である。峠を越してから急に風が絶えて蒸し暑くなった。狭い谷間に沿うて段々に並んだ山田の縁を縫う小道には、とんぼの羽根がぎらぎらして、時々|蛇《へび》が行く手からはい出す。谷をおおう黒ずんだ青空にはおりおり白雲が通り過ぎるが、それはただあちこちの峰に藍色《あいいろ》の影を引いて通るばかりである。咽喉《のど》がかわいて堪え難い。道ばたの田の縁に小みぞが流れているが、金気を帯びた水の面は青い皮を張って鈍い光を照り返している。行くうちに、片側の茂みの奥から道を横切って田に落つる清水《しみず》の細い流れを見つけた時はわけもなくうれしかった。すぐに草鞋《わらじ》のまま足を浸したら涼しさが身にしみた。道のわきに少し分け入ると、ここだけは特別に樫《かし》や楢《なら》がこんもりと黒く茂っている。苔《こけ》は湿って蟹《かに》が這《ほ》うている。崖《がけ》からしみ
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