花物語
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)宅《うち》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|蛇《へび》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ばった[#「ばった」に傍点]
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一 昼顔
いくつぐらいの時であったかたしかには覚えぬが、自分が小さい時の事である。宅《うち》の前を流れている濁った堀川《ほりかわ》に沿うて半町ぐらい上ると川は左に折れて旧城のすその茂みに分け入る。その城に向こうたこちらの岸に広いあき地があった。維新前には藩の調練場であったのが、そのころは県庁の所属になったままで荒れ地になっていた。一面の砂地に雑草が所まだらにおい茂りところどころ昼顔が咲いていた。近辺の子供はここをいい遊び場所にして柵《さく》の破れから出入りしていたがとがめる者もなかった。夏の夕方はめいめいに長い竹ざおを肩にしてあき地へ出かける。どこからともなくたくさんの蝙蝠《こうもり》が蚊を食いに出て、空を低く飛びかわすのを、竹ざおを振るうてはたたき落とすのである。風のないけむったような宵闇《よいやみ》に、蝙蝠を呼ぶ声が対岸の城の石垣《いしがき》に反響して暗い川上に消えて行く。「蝙蝠来い。水飲ましょ。そっちの水にがいぞ」とあちらこちらに声がして時々竹ざおの空《くう》を切る力ない音がヒューと鳴っている。にぎやかなようで言い知らぬさびしさがこもっている。蝙蝠の出さかるのは宵の口で、おそくなるに従って一つ減り二つ減りどことなく消えるようにいなくなってしまう。すると子供らも散り散りに帰って行く。あとはしんとして死んだような空気が広場をとざしてしまうのである。いつか塒《ねぐら》に迷うた蝙蝠を追うて荒れ地のすみまで行ったが、ふと気がついて見るとあたりにはだれもいぬ。仲間も帰ったか声もせぬ。川向こうを見ると城の石垣《いしがき》の上に鬱然《うつぜん》と茂った榎《えのき》がやみの空に物恐ろしく広がって汀《みぎわ》の茂みはまっ黒に眠っている。足をあげると草の露がひやりとする。名状のできぬ暗い恐ろしい感じに襲われて夢中に駆け出して帰って来た事もあった。広場の片すみに高く小砂を盛り上げた土手のようなものがあった。自分らはこれを天文台と名づけていたが、実は昔の射的場の玉よけの跡であったので時々砂の中から長い鉛玉を掘
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