科学上における権威の価値と弊害
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)門外から窺《うかが》い見て

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近頃|流行《はや》る高山旅行など

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(例)[#地から1字上げ](大正四年頃)
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 科学上における権威の効能はほとんど論ずる必要はないほど明白なものである。ことに今日のごとく各方面の科学は長足の進歩を遂げてその間口の広い事、奥行の深い事、既往の比でない。なかなか風来人が門外から窺《うかが》い見てその概要を知る事も容易ではない。のみならずおのおの独立の名称を有《も》っている科学の分派、例えば物理とか化学とかいうものの中にまた色々の部門がおのおの非常な発達をしている。たとえ日進月歩の新知識を統括する方則や原理の数はそれほど増さないとしても、これによって概括せらるべき事実の数は次第に増加して来るばかりである。従って勢い物理学の中でもだんだんに専門の数が増加しその範囲が狭くなる。この勢いで進んで行けば物理学を学修するという事はなかなか困難な事になる。人間の能力がこれに比例して増進しない限りは、十人並の人間一生の間に物理学の全般にわたって一通りの知識だけでも得ようとするのはなかなか容易な事でなくなる。もし全般に通じようとすれば勢い浅薄に流れ、もし蘊奥《うんおう》を極めんとすれば勢い全般の事は分らずにしまわなければならぬような有様である。
 このような時代においてもしある科学の全般にわたって間口も広く奥行も深く該博深遠な知識をもった学者があって、それが学習者を指導し各部分の専門的研究者や応用家の相談相手になって行くとすれば実にこの上もない事である。しかしそのような権威は今後ますます少数になるだろうと思われる。そうなると止むを得ず間口の広い方の権威者と間口が狭くて奥行ばかり深い権威者か二つに一つよりしかないような場合がないとも限らない。このような云わば一元的 one dimensional な権威といえども学修者研究者にとって甚だ必要なものである事は勿論である。
 今ここに夏休みに温泉に出かけようとする人がある。その人にとっては先ず全国の温泉案内書のようなものは甚だ重宝である。それで調べていよいよある温泉に行くとなると、今度はその温泉の案内に明るい人の話が聞きたくなるのである。前に述べた二種の権威者は丁度これに似たものである。前者については一つ一つの温泉の詳しい事は分らないが各温泉の特徴については明瞭な知識を与え選択の手《た》よりになる。後者ではその温泉と他との比較は明らかにならない。
 ともかくも学術上の権威者の一つの役目は丁度旅行者に対する案内者の役目である。京都見物を一定時日の間に最も有効にしようというには適当な案内者あるいはこれに代るべき案内書があると便利である。そうでないと往々重要なものを見落す虞《おそれ》がある。近頃|流行《はや》る高山旅行などではなおさらである。案内人なしにいい加減な道を歩いていると道に迷うてとんでもない災難に会わなければならない。
 案内人として権威の価値は明らかであるが、同時に案内人の弊害もある事は割合に考える人が少ない。
 通りすがりの旅人が金閣寺を見物しようとするには案内の小僧は甚だ重宝なものであるが、本当に自分の眼で充分に見物しようとするには甚だ不都合なものである。一通りの定まった版行《はんこう》で押した項目だけを暗誦的に説明してしまえばそれでもうおしまいで先様御代りである。少し詳しく立止まって見たいと思う者があっても、大勢に追従して素通りをしてしまわなければならない。吾人が学校で学問を教わるのは丁度このようなものである。これはつまり大勢の人間に同時に大体を見せるためには最も適当で有効な方法には相違ない。しかしこの案内人の流儀をあまり徹底させては、本当に科学を学修しようというもののためには非常な迷惑である事は申すまでもない。
 かつてロンドン滞在中、某氏とハンプトンコートの離宮を拝観に行った事がある。某氏はベデカの案内記と首引で一々引き合わして説明してくれたので大いに面白かった。そのうちにある室で何番目の窓からどの方向を見ると景色がいいという事を教えたのがあった。その時自分はこんな事を云った。「これでは自分で見物するのでなくてベデカの記者に見物させられているようなものだ。」自分は同行者の温順な謙譲な人柄からその人がベデカの権威に絶対的に服従してベデカを通しての宮園のみを鑑賞する態度を感心もしまた歯がゆくも思った。しかし考えてみると、多くの自然科学の学生がその研究の対象とする自然を見るのに、あるいは教科書を通しあるいは教師の講義録を通して見るのみで、自分の眼で自分
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