科学者と芸術家
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)無頓着《むとんちゃく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全然|無頓着《むとんちゃく》に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+冒」、第4水準2−5−68]嫉《ぼうしつ》は
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 芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着《むとんちゃく》であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌《けんき》の念をいだいているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。
 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。
 夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好《しこう》を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。もちろん芸術家も時として衣食のために働かなければならぬと同様に、科学者もまた時として同様な目的のために自分の嗜好に反した仕事に骨を折らなければならぬ事がある。しかしそのような場合にでも、その仕事の中に自分の天与の嗜好《しこう》に逢着《ほうちゃく》して、いつのまにかそれが仕事であるという事を忘れ、無我の境に入りうる機会も少なくないようである。いわんや衣食に窮せず、仕事に追われぬ芸術家と科学者が、それぞれの製作と研究とに没頭している時の特殊な心的状態は、その間になんらの区別をも見いだしがたいように思われる。しかしそれだけのことならば、あるいは芸術家と科学者のみに限らぬかもしれない。天性の猟師が獲物をねらっている瞬間に経験する機微な享楽も、樵夫《しょうふ》が大木を倒す時に味わう一種の本能満足も、これと類似の点がないとはいわれない。
 しかし科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の
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