の考えの筋道を有りのままに記述した随筆のようなものには、往々科学者にも素人《しろうと》にもおもしろくまた有益なものが少なくない。チンダルのアルプス紀行とか、あまり有名ではないが隠れた科学者文学者バーベリオンの日記とかいうものがそうである。日本人のものでは長岡《ながおか》博士の「田園|銷夏《しょうか》漫録」とか岡田《おかだ》博士の「測候|瑣談《さだん》」とか、藤原《ふじわら》博士の「雲をつかむ話」や「気象と人生」や、最近に現われた大河内《おおこうち》博士の「陶片《とうへん》」とか、それからこれはまだ一部しか見ていないが入沢《いりさわ》医学博士の近刊随筆集など、いずれも科学者でなければ書けなくて、そうして世人を啓発しその生活の上に何かしら新しい光明を投げるようなものを多分に含んでいる。それから、自分の知っている狭い範囲内でも、まだ世に知られない立派な科学者随筆家は決して少数ではないのである。しかし現代ではまだ、学者で新聞雑誌にものを書くことが悪い意味でのいわゆるジャーナリズムの一部であるように考える理由なき誤解があるのと、また一方では新聞雑誌の経営者と一般読者とが、そういうものの真価値を充分に認識しないのとで、この種の特殊文学はまだ揺籃時代《ようらんじだい》を脱することができないようである。しかし自分の見るところでは文学のこの一分派にはかなり広い未来の天地があるような気がするのである。
科学者のに限らず、一般に随筆と称するものは従来文学の世界の片すみの塵塚《ちりづか》のかたわらにかすかな存在を認められていたようである。現在でも月刊雑誌の編集部では随筆の類は「中間物」と称する部類に編入され、カフェーの内幕話や、心中実話の類と肩をならべ、そうしていわゆる「創作」と称する小説戯曲とは全然別の繩張《なわば》り中に収容されているようである。これはもちろん、形式上の分類法からすれば当然のことであって、これに対して何人《なんびと》も異議を唱えるものはないであろう。しかしまたここに少しちがった立場に立つものの見方からすると、このような区別は必ずしも唯一無二ではないのである。早わかりのするためには最極端な場合を考えてみればよい。すなわち、一方には、およそ有りふれた陳套《ちんとう》な題材と取り扱い方をした小説の「創作」と、他方では、最独創的な自然観人生観を盛った随筆の「中間物」とを対比させて見れば、後者のほうが前者よりもより多く創作的であり、前者のほうがひと山|百文《ひゃくもん》の模造物への中間にあるものと考えられるであろう。
ただいわゆる「創作」は概して言えばだいたいに「話の筋」が通っており、数行のレジュメで要約されるストーリーをもっている場合が多い。これに反して、中間的随筆は概してはっきりした「筋」をもたない場合が多い。しかし、この差別も実はそれほどはっきりしたものではなくて、創作欄にあるものでも、ほとんど内容的に身辺の雑事を描写した随筆的なものもあり、また反対に、随筆と銘打ったものでも、その中には、ある人間の一群の内部生活の機微なる交錯が平凡な小説などより数等深刻にしかも巧妙な脚色をもって描かれているものが決して少なくないのである。例をあげよとならば、近ごろ見たものの中では森田草平《もりたそうへい》の「のんびりした話」の中にある二三の体験記録などはいかなる点でも創作であり内容的には立派な小説でもあり戯曲でもあると考えられるのである。もっとも、こういう体験記は「創作」でないという説もあるかもしれないが、そういうことになれば、現代わが文壇でポピュラーな小説的作品中の多数のものはやはりもはや小説でなく創作でなくなるのである。創作とは空想と同義ではない。題材の取り扱いの上に作者の独創があるか無いかが問題になるのである。ゲーテの「イタリア紀行」は創作であり、そこらの三文小説は小説ではないことは事新しく言うまでもないことである。
こういうふうに考えて来るといわゆる「創作」と随筆との区別は、他の多くの「分類」の場合と同じく、漸移的不決定的なものである。ただ便宜上、いわゆる小説家戯曲家の書いた「多少事実と相違するらしいもの」が創作小説と名づけられ、小説家以外のものまた小説家でも「ほんとうにあったこと」と人が認めるものを書いたものが随筆の部類に編入される、というのが実際の事相であるように見える。
こういう見方を進めて行くと、結局、いわゆる創作とは、つじつまを合わせるために多少の欺瞞《ぎまん》を許容したこしらえものの事であり、随筆とは筆者の真実、少なくも主観的真実を記録したものであるというふうにも見られる。こういうふうに見ると、すでに前条に述べたような「人生の記録と予言」という意味での芸術としての文学の真諦《しんたい》に触れるものは、むしろ前者よりも後者のほうに多いということになりはしないかと思われる。そうして後者のほうは、同時にまた科学に接近する、というよりもむしろ、科学の目ざすと同一の目的に向かって他の道路をたどるもののようにも見えるのである。
以上の所説は、一見はなはだしく詭弁《きべん》をろうしたもののように見えるかもしれないが、もし、しばらく従来の先入観をおいて虚心に省察をめぐらすだけの閑暇を享有する読者であらば、この中におのずから多少の真の半面を含むことを承認されるであろうと信ずる。
それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。
広義の「学」としての文学と科学
随筆は論理的な論理を要求しない。論理的な矛盾があっても少しもそれが文学であることを妨げない。しかしそういう場合でも、必ず何かしら「非論理的な論理」がある。それは「夢の論理」であってもよい。そういうものが何もなければ、それは読み物にならない。
非論理的論理というのは、今の人間のまだ発見し意識し分析し記述し命名しないところの、人間の思惟《しい》の方則を意味する。これを掘り出し認識するのが未来に予想さるる広義の「学」の一つの使命である。科学も文学も等しくこの未来の「学」の最後のゴールに向かってたどたどしい歩みを続けているもののようにも思われるのである。
「文学も他の芸術も、社会人間の経済状態の改善に直接何かの貢献をするものでなければならない」というような考えや、また反対に「文学その他の芸術は芸術のための芸術でなければならない」といったような考えや、そういう二つの考え方の間に行なわれる討議応酬は、自分のような流儀の考え方から見ればおよそ無意味なこととしか思われないのである。真実な現象の記録とその分析的研究と系統化が行なわれて、ほんとうの「学」が進歩すれば、政治でも経済でも人間に有利になるのが当然の帰結であると思われ、また一方芸術的に美しいものであるためには、その中に何かしら、ここでいわゆる「学」への貢献を含むということが必須条件《ひっすじょうけん》であると思われるのである。一見いかに現在の道徳観を擾乱《じょうらん》するように思われるものであっても、また一見いかに病的な情緒に満ちたものであっても、それが多数の健全なる理性の所有者にとっていわゆる芸術的価値を多少なりとも認め得られるとすれば、それはただその作品の中に「記録」と「予言」が含まれているために過ぎないであろう。「記録」は客観的事実であり、これは科学の場合と同様に、無限なる利用と悪用の可能性を包蔵している。
もちろんすべての知識には悪用の危険性を含んでいる。科学知識も同様である。しかし科学は全体として見れば人間一般の福利を増進するつもりで進んで来た。もちろん現在ではかえって科学の進んだために前よりも不幸になった人間も多数にありはするが、それは物質科学の方面だけが先駆けをしてほんとうの社会科学、現在のいわゆる社会科学よりももう少し科学的な社会科学、がはるかなかなたに取り残されたために生じた矛盾であり悲劇であるように思われる。換言すれば人間の心に関する知識の科学的系統化とその応用が進んでいないために起こる齟齬《そご》の結果ではないかとも考えられるのである。
そういう系統化への資料を供するのが未来の文学の使命ではないかと思うのである。
通俗科学と文学
いわゆる通俗科学と称するものがある。科学の事実やその方則やその応用の事例を一般読者にわかりやすいように解説することを目的としたものである。そういうものの中でもファラデー、ヘルムホルツ、マッハ、ブラグなどのものはすぐれた例である。それがすぐれている所因は単に事がらを教えるのみでなく、科学的なものの考え方を教え、科学的の精神を読者の中によびさますからである。そういうものを書きうるためには著者はやはりすぐれた科学的探究者であると同時にまた文学的創作者でもなければならない。
以上にあげたような一流の科学者のほかにたとえばフラマリオンやフルニエー・ダルベのような科学の普及や宣伝に貢献したよい意味でのジャーナリストもあるが、しかしそういうものは純粋の科学者から見ると、どうしても肝心のところに物足りないところのあるのはいかんともすることができない。
しかるに今日世間に流布する多くのいわゆる通俗科学書中にはすこぶるいかがわしいにせ物が多いように見受けられる。科学の表層だけを不完全なる知識として知っているだけで、自身になんら科学者としての体験のないような職業的通俗科学者の書いたものなどには、かえって科学の本質をゆがめて表現しているものも決して少なくない。また一方では、相当な科学者の書いたものでも、単に読者の退屈を紛らすためとしか思われないような、話の本筋とは本質的になんの交渉もないような事がらを五目飯のように交ぜたり、空疎な借りもののいわゆる「美文」を装飾的に織り込んだりしたようなものもまた少なくはないようである。いずれにしても著者の腹にない付け焼き刃の作物では科学的にはもちろん、文学的にもなんらの価値がありようはないのである。
科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
そういう意味でまた通俗科学の講演筆記や、エッセーは立派な「創作品」であり「芸術品」でもありうるのである。取り扱ってある対象は人間界と直接交渉のない生物界あるいは無機界のことであっても、そういう創作であれば、必ず読者の対世界観、ひいてはまた人生観になんらかの新しい領土を加えないではおかないであろう。「読者の中の人間」を拡張し進化させるようなものならばそれを文学と名づけるになんの支障があろうとは思われないのである。
ジャーナリズムと科学
科学が文学の世界に接触するときに必然にあまりおもしろからぬ意味でのいわゆるジャーナリズムとの交渉が起こる。
ジャーナリズムとはその語の示すとおり、その日その日の目的のために原稿を書いて、その時々の新聞雑誌の記事を作ることである。それ自身に別段悪い意味はないはずであるが、この定義の中にはすでにいろいろな危険を包んでいる。浅薄、軽率、不正確、無責任というようなものがおのずから付きまといやすい。それからまた読者の一時的の興味のために、すべての永久的なものが犠牲にされやすい。それからまた題材が時の流行に支配されるために、取材の範囲がせばめられ、同時にその題材と他の全体との関係が見失われやすい。
そういうジャーナリズムの弊に陥ったような通俗科学記事のみならず、科学的論文と銘打ったものさえ決して少なくはないのである。多くの通俗雑誌や学会の記事の中でもそういうものを拾い出せとならば拾い出すこ
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