ゆえに過去の記録はまた将来の予言となる。科学の価値と同じく文学の価値もまたこの記録の再現性にかかっていることはいうまでもない。
それのみではない。科学が未知の事象を予報すると同様に、文学は未来の新しい人間現象を予想することも可能である。
想像力の強い昔の作者の予想した物質文明機関で現代にすでに実現されているものがはなはだ多い。電燈でも、飛行機でも、潜水艇でもまたタンク戦車のごときものすら欧州大戦よりずっと以前に小説家によって予想されている。市井の流行風俗、生活状態のようなものはもちろん、いろいろな時代思潮のごときものでも、すぐれた作者の鋭利な直観の力で未然に洞察《どうさつ》されていた例も少なくないであろう。未来の可能性は、それがどんなに現在の凡人に無稽《むけい》に見えても実は現在の可能性のほんのわずかの延長にしか過ぎないからである。人間の飽くことなき欲望がこの可能性の外被を外へ外へと押して行くと、この外被は飴《あめ》のようにどこまでもどこまでも延長して行くのである。これを押し広げるものが科学者と文学者との中の少数な選ばれたる人々であるかと思われる。
芸術としての文学と科学
文学も科学も結局は広義に解釈した「事実の記録」であり、その「予言」であるとすると、そういうものといわゆる「芸術」とが、どういう関係になるかという問題が起こらないわけにはゆかなくなる。換言すれば、そういう記録と予言がどうして「美」でありうるかということである。これは容易ならぬ問題である。しかし極端な自然科学的唯物論者におくめんなき所見を言わせれば、人間にとってなんらかの見地から有益であるものならば、それがその固有の功利的価値を最上に発揮されるような環境に置かれた場合には常に美である、と考えられるであろう。
この考えを実証すべき例証をここに列挙することは略しても、こういう考えがそれ自身なんら新しいものでないことは読者に明らかなことである以上、現在の考察を進める上にたいした支障はないであろう。自分のここで言おうとすることは、そういう考えを承認した上での帰結に関することである。
すなわち、文学が芸術であるためには、それは人間に有用な真実その物の記録でなければならない。また逆にすべての真実なる記録はすべて芸術であるというのである。どんな空想的な夢物語でも多感な抒情詩《じょじょうし》でも、それが真の記録であるゆえに有益であり同時に美しいというのである。ここまではおそらく多くの読者も少なくも多少の条件付きでは首肯されるであろうと思われる。しかし、さらに一歩を進めて、科学上の傑出した著述はすべて芸術であると言おうとすれば、これにはおそらく容易に同感を表しかねる人が多いであろうと思われる。こういう見方はしかし、実はそれほど無稽《むけい》なものでないということは、すでに自分のみならず、他の人もしばしば論じたことである。
手近な例を取ってみても、ファーブルの昆虫記《こんちゅうき》や、チンダルの氷河記を読む人は、その内容が科学であると同時に芸術であることを感得するであろう。ダーウィンの「種の始源」はたしかに一つの文学でもある。ウェーゲナーの「大陸移動論」は下手《へた》の小説よりは、たしかに芸術的である。そうしてまた、ある特別な科学国の「国語」の読める人にとっては、アインシュタインの相対性原理の論文でも、ブロイーの波動力学の論文でも、それを読んで一種無上の美しさを感じる人があるのをとがめるわけにはゆかないであろうと思う。ただ事がらが非情の物質と、それに関する抽象的な概念の関係に属するために、明白な陳套《ちんとう》な語で言い現わされるような感情の動揺を感じることはないであろうが、真なるものを把握《はあく》することの喜びには、別に変わりはないであろう。
それだのに文学と科学という名称の対立のために、因襲的に二つの世界は截然《せつぜん》と切り分けられて来た。文学者は科学の方法も事実も知らなくても少しもさしさわりはないと考えられ、科学者は文学の世界に片足をも入れるだけの係わりをもたないで済むものと思われて来たようである。
しかし二つの世界はもう少し接近してもよく、むしろ接近させなければならないように自分には思われるのである。
文学と科学の国境
科学の世界には義理も人情もない。文学の世界にあるものは義理と人情のほかのものと言えばそれの反映である。しかし、科学の世界は国境の向こうから文学の世界に話しかける、その話はわれわれにいろいろのことを考えさせる。
たとえば昆虫《こんちゅう》の生活といったようなものは人間の義理人情とはなんの関係もないことである。「植物社会学」の教科書の記事は、人間の社会生活と一糸の連絡もない。しかし、そういうものを読んだことのない小説家と、それを読み深く味わったことのある小説家とではその作品になんらかのちがった面目が現われないわけにはゆかないであろう。熱力学の方則を理解した作者としない作者とでは、同じ事件の取り扱い方におのずからちがった展開を見せないとは言われないであろう。
顕微鏡で花の構造を子細に点検すれば、花の美しさが消滅するという考えは途方もない偏見である。花の美しさはかえってそのために深められるばかりである。花の植物生理的機能を学んで後に始めて充分に咲く花の喜びと散る花の哀れを感ずることもできるであろう。
人間の文化が進むにつれて、文学も進化しなければならないはずである。すべての世間の科学的常識が進んで行く世の中に文学だけが過去の無知を保守しなければならないという理由はどうにも考えられない。人間の文学が人間の進歩に取り残されてはいたし方がないであろう。むしろ文学者は科学者以上にさらにより多く科学者でなければならないはずだと思われるのである。
一方科学者のほうではまた、その研究の結果によって得られた科学的の知識からなんらかの人間的な声を聞くことを故意に忌避することがあたかも科学者の純潔と尊厳を維持するゆえんであると考えるような理由のない慣習が行なわれて来た。なるほど物質界の事実から「論理的」に人間界の事に推論することは全く不可能である。しかし、そういう物質界の現象の知識は人間にいろいろのことを暗示し「思い出させる」という役目をつとめるのは、紛れもない事実である。たとえばAかBかのほかには何物も有り得ないという仮定のもとに或《あ》る人間の問題を取り扱っている際に、ある物質界の現象を学ぶことによって忽然《こつぜん》として、他にCの可能性の存在を忘却していたということに気がつくことがしばしば有りうるであろう。
誤った無理な似て非なる類推は断じて許されないとしても、このような想起者として科学は意外に重要な役目を人間の今日の生活のいろいろな場面に対して申し出しているように思われるのである。
これは決して偶然なことではないのである。いったい、科学の方法の基礎には一般人間悟性に固有で必然ないろいろな方則とその運用のあらゆる形式が控えている。この形式はインドやギリシアの古代からいわゆる哲学者によってすでに探究されはじめ、そうして長い哲学の歴史の流れを追うて次第次第に整理され洗練されて来たものである。それが近代科学の基礎として採用され運用されるようになって以来いっそうの検討と洗練を加えられて、今日では昔の人の思い及ばなかったような複雑でしかも整然と排列された一大系統を成している。もっともそういう方法は普通の科学の教科書には、あらわにはどこにも書いてない。ただ具体的な実例の取り扱いの中に黙示的に含蓄されているだけである。たとえば、ある一つの現象がたくさんの因子の共存的効果によって決定される場合に、いかにして各個の因子の個々の影響を分析すべきかというような問題に対するいろいろの方法が示されている。そういう場合にこの方法の中から、あらゆる具体的なものを取り去った場合にそこに抽象的な認識の形式が残る。すなわち、ただ一つだけの因子が有効で他のすべての因子が無効な場合におけるその一つの因子の及ぼす効果だけを知れば、それらの個別的効果の総和が実際の共存的場合の効果を与えるか、というと、決してそうばかりでないということが科学上の実例にはいくらもある。すなわち異なる因子の相乗積が参加する場合がそうなのである。それだのに世の中ではそういう、科学者には明白な可能性を無視した考え方が普通に行なわれ、そういう考え方をもとにして書いた小説などもしばしばあるのである。
ともかくも人間の物を考える考え方の形式は科学以前から存在し発達し分化して来たものであって、その一部の屋庇《やびさし》の下に現在の科学が発達した。しかし科学の庇《ひさし》の下に発達したものの根源は科学以前から科学の具体的内容とは無関係に存在する人間固有の悟性の方則なのである。
因果律といったようなものにしても、その考えは科学の歴史の上でもいろいろの変遷を遂げて来た。そうして一時は仏説などの因果の考えとは全く背馳《はいち》する別物であるかのように見えたのが、近ごろはまた著しい転向を示して来て、むしろ昔の因果に逆もどりしそうな趨勢《すうせい》を示すようにも見られるのである。
要するに科学の基礎には広い意味における「物の見方と考え方」のいろいろな抽象的な典型が控えている。これは科学的対象以外のものに対しても適用されうるものであり、また実際にも使用されているものである。それを科学がわれわれに思い出させる事は決して珍しくも不思議でもないのである。もとよりそういう見方や考え方が唯一のものであるというわけでは決してないのであるが、そういう見方考え方が有益である場合はまた非常に多くてしかも一般世人がそれを見のがしていることもはなはだ多いように思われる。
それで、そういういろいろな物の見方に慣れた科学者が人間界の現象に対してそういう見方から得られるいろいろな可能性を指摘してそれに無関心な世人の注意を促すということは、科学者としてふさわしいことであって、そうしてむしろ科学者にしてはじめて最も有効に行ない得らるる奉公の道ではないかとも考えられるのである。
しかし、科学者の考え方は唯一無二のものではない。また科学者の成しうるすべては、ただ可能性の指摘あるいは暗示である。かくすべしという命令は科学者としての任務のほかであることはもちろんである。これは忘れてならないことで、しかも往々にして忘れられがちなことである。
そういうことから考えても、科学者が科学者として文学に貢献しうるために選ぶべき一つの最も適当なる形式はいわゆるエッセーまた随筆の類であろうと思われる。
随筆と科学
科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる。
俗に科学小説と称するものがある。昔のジュール・ヴェルヌの海底旅行のようなものもある。また近代のではウェルズの「時の器械」とか「世界間の戦争」のようなものもある。いずれも科学的未来記のようなものとして、通俗的の興味は多分にあるであろうが、ほんとうの科学的精神といったようなものは実は存外はなはだ希薄なものであるように見える。それらの多くは科学の世界の表層に浮かぶ美しいシャボン玉を連ねた美しい詩であり、素人《しろうと》の好奇心を刺激するような文明の利器を陳列したおもしろい見世物ではあるが、科学の本質に対する世人の理解を深め、科学と人生との交渉の真に新しい可能性を暗示するようなものは存外にはなはだまれである。そうして、小説的戯曲的構成という形式的要求から、いろいろの無理な不自然な仕組みを使う必要が生じるので、結局はつじつまを合わせようとするために、かえってつじつまの合わぬ大きなうそをこしらえ上げることになりやすい。それで、こういう種類のいわゆる科学小説は、たいていは科学者にはばからしく、素人には科学に対する重大な誤解の誘因ともなりうるのである。
これに反して科学者が科学者に固有な目で物象を見、そうして科学者に固有な考え方で物を考えたそ
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