っても、また一見いかに病的な情緒に満ちたものであっても、それが多数の健全なる理性の所有者にとっていわゆる芸術的価値を多少なりとも認め得られるとすれば、それはただその作品の中に「記録」と「予言」が含まれているために過ぎないであろう。「記録」は客観的事実であり、これは科学の場合と同様に、無限なる利用と悪用の可能性を包蔵している。
 もちろんすべての知識には悪用の危険性を含んでいる。科学知識も同様である。しかし科学は全体として見れば人間一般の福利を増進するつもりで進んで来た。もちろん現在ではかえって科学の進んだために前よりも不幸になった人間も多数にありはするが、それは物質科学の方面だけが先駆けをしてほんとうの社会科学、現在のいわゆる社会科学よりももう少し科学的な社会科学、がはるかなかなたに取り残されたために生じた矛盾であり悲劇であるように思われる。換言すれば人間の心に関する知識の科学的系統化とその応用が進んでいないために起こる齟齬《そご》の結果ではないかとも考えられるのである。
 そういう系統化への資料を供するのが未来の文学の使命ではないかと思うのである。

     通俗科学と文学

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