も、それが真の記録であるゆえに有益であり同時に美しいというのである。ここまではおそらく多くの読者も少なくも多少の条件付きでは首肯されるであろうと思われる。しかし、さらに一歩を進めて、科学上の傑出した著述はすべて芸術であると言おうとすれば、これにはおそらく容易に同感を表しかねる人が多いであろうと思われる。こういう見方はしかし、実はそれほど無稽《むけい》なものでないということは、すでに自分のみならず、他の人もしばしば論じたことである。
手近な例を取ってみても、ファーブルの昆虫記《こんちゅうき》や、チンダルの氷河記を読む人は、その内容が科学であると同時に芸術であることを感得するであろう。ダーウィンの「種の始源」はたしかに一つの文学でもある。ウェーゲナーの「大陸移動論」は下手《へた》の小説よりは、たしかに芸術的である。そうしてまた、ある特別な科学国の「国語」の読める人にとっては、アインシュタインの相対性原理の論文でも、ブロイーの波動力学の論文でも、それを読んで一種無上の美しさを感じる人があるのをとがめるわけにはゆかないであろうと思う。ただ事がらが非情の物質と、それに関する抽象的な概念の関係に属するために、明白な陳套《ちんとう》な語で言い現わされるような感情の動揺を感じることはないであろうが、真なるものを把握《はあく》することの喜びには、別に変わりはないであろう。
それだのに文学と科学という名称の対立のために、因襲的に二つの世界は截然《せつぜん》と切り分けられて来た。文学者は科学の方法も事実も知らなくても少しもさしさわりはないと考えられ、科学者は文学の世界に片足をも入れるだけの係わりをもたないで済むものと思われて来たようである。
しかし二つの世界はもう少し接近してもよく、むしろ接近させなければならないように自分には思われるのである。
文学と科学の国境
科学の世界には義理も人情もない。文学の世界にあるものは義理と人情のほかのものと言えばそれの反映である。しかし、科学の世界は国境の向こうから文学の世界に話しかける、その話はわれわれにいろいろのことを考えさせる。
たとえば昆虫《こんちゅう》の生活といったようなものは人間の義理人情とはなんの関係もないことである。「植物社会学」の教科書の記事は、人間の社会生活と一糸の連絡もない。しかし、そういうものを読んだことの
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