し実は産地の旱魃《かんばつ》のためであった。近ごろの新聞には、亭主《ていしゅ》が豆腐を一人で食ってしまって自分に食わせないという理由で自殺した女房のことが伝えられた。まさかこれほどではないまでも歴史の中にはこれに類するものが存外にたくさんあるであろうと想像される。
また一方で歴史と称するものは通例王者、勝利者、支配者の歴史であって、人間の歴史としてははなはだ物足りないものである。少なくも人間の歴史はただその中に偶然的に織り込まれているに過ぎない。歴史を読むのみではわれわれは祖先民族の生活も心理もきわめておぼろげにしかうかがうことができない。
この欠陥を補うものはまず第一に個人の日記、随感録のごときものである。そういうものが後代に愛読され尊重されるのは、必ずしもそれが「文章」であるためではなくて、それが「記録」であるためであろう。殿上の名もない一女官がおぼつかない筆で書いた日記体のものでも、それが忠実な記録であるために実証的の価値があり同時にそこに文学としての価値を生じるものと思われる。
第二にはいろいろの物語小説の類である。その中に現われる人物が実際にあったとか、なかったとかいう事はほとんど問題にも何もならないことであって、それらの仮想人物によって代表された人間の定型と、叙述された事件の定型はたしかに存在したのである。これはあらゆる「史実」よりもはるかに確実であって疑う余地を存しない。これはその書が後代の偽作でない限り言われることである。作者がいかに豊富なる想像力の所有者であってもその時代を偽り描くということは到底不可能な仕事だからである。それで、ちょうど、ある弾丸の描く弾道はまた同時に他のすべての可能な弾道を代表するように、一遊星の軌道はまさしく天体引力の方則を代表するように、光源氏《ひかるげんじ》や葵《あおい》の上《うえ》の行動はまさしくその時代の男女の生活と心理の方則を代表するものとも考えられる。こういう意味において、源氏物語や落窪物語《おちくぼものがたり》のようなものは、中等学校の歴史教科書よりも、文化国の大新聞の記事よりも、はるかに忠実な記録であり実証的な資料として役立つものである。おもしろいことには、そういう価値の多少がまたほとんど直ちに普通にいわゆる文学的芸術的価値の多少と一致するように思われるのである。
歴史は繰り返す。方則は不変である。それ
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