「明治文庫」「文芸倶楽部《ぶんげいくらぶ》」というような純文芸雑誌が現われて、露伴《ろはん》紅葉《こうよう》等多数の新しい作家があたかもプレヤデスの諸星のごとく輝き、山田美妙《やまだびみょう》のごとき彗星《すいせい》が現われて消え、一葉《いちよう》女史をはじめて多数の閨秀作者《けいしゅうさくしゃ》が秋の野の草花のように咲きそろっていた。外国文学では流行していたアーヴィングの「スケッチ・ブック」やユーゴーの「レ・ミゼラブル」の英語の抄訳本などをおぼつかない語学の力で拾い読みをしていた。高等学校へはいってから夏目漱石先生に「オピアム・イーター」「サイラス・マーナー」「オセロ」を、それもただ部分的に教わっただけである。そのころから漱石先生に俳句を作ることを教わったが、それとてもたいして深入りをしたわけではなかった。
 自分の少青年時代に受けた文学的の教育と言えば、これくらいのことしか思い出されない。そうして、その後三十余年の間に時おり手に触れた文学書の、数だけはあるいは相当にあるかもしれないが、自分の頭に深い強い印象を焼き付けたものと言ってはきわめて少数であるように思われる。日本の作家では夏目先生のものは別として国木田独歩《くにきだどっぽ》、谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》、芥川竜之介《あくたがわりゅうのすけ》、宇野浩二《うのこうじ》、その他数氏の作品の中の若干のもの、外国のものではトルストイ、ドストエフスキーのあるもの、チェホフの短編、近ごろ見たものでは、アーノルド・ベンネットやオルダス・ハクスレーの短編ぐらいなものである。
 何ゆえに自分がここでこのような、読者にとってはなんの興味もない一私人の経験を長たらしく書き並べたかというと、これだけの前置きが、これから書こうとするきわめて特殊な、そうして狭隘《きょうあい》で一面的な文学観を読者の審判の庭に供述する以前にあらかじめ提出しておくべき参考書類あるいは「予審調書」としてぜひとも必要と考えられるからである。
 もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。少年時代に上記のごときおとぎ文学や小説戯曲に読みふけっているかたわらで、昆虫《こんちゅう》の標本を集めたり植物※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]葉《しょくぶつさくよう》を作ったり、ビールびんで水素を発生させ
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