ックス》の無限な変化によって、無限に多様な変化を見せるであろう。さらにもっともっと複雑な例を取って、たとえば人がその愛する人の死に対していかに感じいかに反応しいかに行動するかという場合になると、もはや決定さるべき情緒や行為を数量的に定めることもできないのみならず、これに連関する決定因子やその条件のどれ一つとして、物理的方法の延長の可能範囲に入り込むものはなくなってしまうのである。
それにもかかわらず、以上の考察は一つの興味ある空想を示唆する。すなわち、人間の思惟《しい》の方則、情緒の方則といったようなものがある。それは、まだわれわれのだれも知らない微分方程式のようなものによって決定されるものである。われわれはその式自身を意識してはいないがその方則の適用されるいろいろの具体的な場合についての一つ一つの特殊な答解のようなものを、それもきわめて断片的に知っている。そうして、それからして、その方程式自身に対する漠然《ばくぜん》とした予感のようなものを持っているのである。それで、今もしここに一人のすぐれた超人間があって、それらの方程式の全体を把握《はあく》し、そうしていろいろな可能な境界条件、当初条件等を插入《そうにゅう》して、その解を求めることができたとする。そうしてその問題と解決と結論とを、われわれにわかる言葉で記述してわれわれに示したとする。それを読んだわれわれが、それによって人間界の現象について教えられることは、ちょうど理論物理学的論文によって自然界の物理的現象について教えられるのと似かよったものであるとも言われよう。
しかし、こういう微分方程式は少なくも現在では夢想することさえ困難である。しかしそういうものへの道程の第一歩に似たようなものは考えられなくはない。
物理的科学が今日の状態に達する以前、すなわち方則が発見され、そうして最初に数式化される前には、われわれはただ個々の具体的の場合の解式だけを知っていた。そうして、過去にあったあらゆる具体的の場合を験査し、またいろいろな場合を人工的に作るために「実験」を行なった。それらの経験と実験の、すべての結果を整理し排列して最後にそれらから帰納して方則の入り口に達した。
文学は、そういう意味での「実験」として見ることはできないか。これが次に起こる疑問である。
実験としての文学と科学
たとえば勢力不滅の
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