里の海岸で遊んでいたので、退屈まかせに長たらしい手紙をかいてはロンドンの先生に送った。そうして先生からのたよりの来るのを楽しみにしていた。病気がよくなって再び上京し、まもなく妻をなくして本郷五丁目に下宿していたときに先生が帰朝された。新橋《しんばし》駅(今の汐留《しおどめ》)へ迎いに行ったら、汽車からおりた先生がお嬢さんのあごに手をやって仰向かせて、じっと見つめていたが、やがて手をはなして不思議な微笑をされたことを思い出す。
 帰朝当座の先生は矢来町《やらいちょう》の奥さんの実家|中根《なかね》氏邸に仮寓《かぐう》していた。自分のたずねた時は大きな木箱に書物のいっぱいつまった荷が着いて、土屋《つちや》君という人がそれをあけて本を取り出していた。そのとき英国の美術館にある名画の写真をいろいろ見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと言われたので、レイノルズの女の子の絵やムリリョのマグダレナのマリアなどをもらった。先生の手かばんの中から白ばらの造花が一束出て来た。それはなんですかと聞いたら、人からもらったんだと言われた。たしかその時にすしのごちそうになった。自分はちっとも気がつかなかったが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻《のりまき》にはしをつけると自分も海苔巻を食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる。先生が海老《えび》を残したら、自分も海老を残したのだそうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書きのしてあったのは、この時のことらしい。
 千駄木《せんだぎ》へ居を定められてからは、また昔のように三日にあげず遊びに行った。そのころはやはりまだ英文学の先生で俳人であっただけの先生の玄関はそれほどにぎやかでなかったが、それでもずいぶん迷惑なことであったに相違ない。きょうは忙しいから帰れと言われても、なんとか、かとか勝手な事を言っては横着にも居すわって、先生の仕事をしているそばでスチュディオの絵を見たりしていた。当時先生はターナーの絵が好きで、よくこの画家についていろいろの話をされた。いつだったか、先生がどこかから少しばかりの原稿料をもらった時に、さっそくそれで水彩絵の具一組とスケッチ帳と象牙《ぞうげ》のブックナイフを買って来たのを見せられてたいそううれしそうに見えた。その絵の具で絵はがきをかいて親しい人たちに送ったりしていた。「猫《ねこ》」以後には橋口五葉《はしぐちごよう》氏や大塚楠緒子《おおつかなおこ》女史などとも絵はがきの交換があったようである。象牙のブックナイフはその後先端が少し欠けたのを、自分が小刀で削って形を直してあげたこともあった。時代をつけると言ってしょっちゅう頬《ほお》や鼻へこすりつけるので脂《あぶら》が滲透《しんとう》して鼈甲色《べっこういろ》になっていた。書斎の壁にはなんとかいう黄檗《おうばく》の坊さんの書の半折《はんせつ》が掛けてあり、天狗《てんぐ》の羽団扇《はうちわ》のようなものが座右に置いてあった事もあった。セピアのインキで細かく書いたノートがいつも机上にあった。鈴木三重吉《すずきみえきち》君自画の横顔の影法師が壁にはってあったこともある。だれかからもらったキュラソーのびんの形と色を愛しながら、これは杉《すぎ》の葉のにおいをつけた酒だよと言って飲まされたことを思い出すのである。草色の羊羹《ようかん》が好きであり、レストーランへいっしょに行くと、青豆のスープはあるかと聞くのが常であった。
「吾輩《わがはい》は猫である」で先生は一足飛びに有名になってしまった。ホトトギス関係の人々の文章会が時々先生の宅《うち》で開かれるようになった。先生の「猫」のつづきを朗読するのはいつも高浜《たかはま》さんであったが、先生は時々はなはだきまりの悪そうな顔をして、かたくなって朗読を聞いていたこともあったようである。
 自分が学校で古いフィロソフィカル・マガジンを見ていたらレヴェレンド・ハウトンという人の「首つりの力学」を論じた珍しい論文が見つかったので先生に報告したら、それはおもしろいから見せろというので学校から借りて来て用立てた。それが「猫《ねこ》」の寒月《かんげつ》君の講演になって現われている。高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養をもっていたのである。文学者には異例であろうと思う。
 高浜、坂本《さかもと》、寒川《さむかわ》諸氏と先生と自分とで神田連雀町《かんだれんじゃくちょう》の鶏肉屋《とりにくや》へ昼飯を食いに行った時、須田町《すだちょう》へんを歩きながら寒川氏が話した、ある変わり者の新聞記者の身投げの場面がやはり「猫《ねこ》」の一節に寒月君の行跡の一つとして現われているのである。
 上野《うえの》の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の
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