時自分のほかに先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江《くりやがわせんこう》、平川草江《ひらかわそうこう》、蒲生紫川《がもうしせん》(後の原医学博士)等の諸氏があった。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想を飛び抜けた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。
先生のお宅へ書生に置いてもらえないかという相談を持ち出したことがある。裏の物置きなら明いているから来てみろと言って案内されたその室《へや》は、第一、畳がはいであってごみだらけでほんとうの物置きになっていたので、すっかりしょげてしまって退却した。しかし、あの時、いいからはいりますと言ったら、畳も敷いてきれいにしてくれたであったろうが、当時の自分にはその勇気がなかったのであった。
そのころの先生の親しかった同僚教授がたの中には狩野亨吉《かのうこうきち》、奥太一郎《おくたいちろう》、山川信次郎《やまかわしんじろう》らの諸氏がいたようである。「二百十日」に出て来る一人が奥氏であるというのが定評になっているようである。
学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教わった。松山《まつやま》中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたそうであるが、自分らの場合には、それとは反対にむしろ達意を主とするやり方であった。先生がただすらすら音読して行って、そうして「どうだ、わかったか」といったふうであった。そうかと思うと、文中の一節に関して、いろいろのクォーテーションを黒板へ書くこともあった。試験の時に、かつて先生の引用したホーマーの詩句の数節を暗唱していたのをそっくり答案に書いて、大いに得意になったこともあった。
教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった。当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。
科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロを講じていた。寒い時分であったと思うが、二階の窓から見ていると黒のオーバーにくるまった先生が正門から泳ぐような格好で急いではいって来るのを「やあ、来た来た」と言ってはやし立てるものもあった。黒のオーバーのボタンをきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風采《ふうさい》であった。しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士《みとろうし》とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。
暑休に先生から郷里へ帰省中の自分によこされたはがきに、足を投げ出して仰向けに昼寝している人の姿を簡単な墨絵にかいて、それに俳句が一句書いてあった。なんとかで「たぬきの昼寝かな」というのであった。たぬきのような顔にぴんと先生のようなひげをはやしてあった。このころからやはり昼寝の習慣があったと見える。
高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸鶯横町《かみねぎしうぐいすよこちょう》に病床の正岡子規子をたずねた。その時、子規は、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運動をしたというような話をして聞かせた。実際子規と先生とは互いに畏敬《いけい》し合った最も親しい交友であったと思われる。しかし、先生に聞くと、時には「いったい、子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら、互いに許し合いなつかしがり合っている心持ちがよくわかるように思われるのであった。
先生が洋行するので横浜《よこはま》へ見送りに行った。船はロイド社のプロイセン号であった。船の出るとき同行の芳賀《はが》さんと藤代《ふじしろ》さんは帽子を振って見送りの人々に景気のいい挨拶《あいさつ》を送っているのに、先生だけは一人少しはなれた舷側《げんそく》にもたれて身動きもしないでじっと波止場《はとば》を見おろしていた。船が動き出すと同時に、奥さんが顔にハンケチを当てたのを見た。「秋風の一人を吹くや海の上」という句をはがきに書いて神戸《こうべ》からよこされた。
先生の留学中に自分は病気になって一年休学し、郷
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