生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。
 科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロを講じていた。寒い時分であったと思うが、二階の窓から見ていると黒のオーバーにくるまった先生が正門から泳ぐような格好で急いではいって来るのを「やあ、来た来た」と言ってはやし立てるものもあった。黒のオーバーのボタンをきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風采《ふうさい》であった。しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士《みとろうし》とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。
 暑休に先生から郷里へ帰省中の自分によこされたはがきに、足を投げ出して仰向けに昼寝している人の姿を簡単な墨絵にかいて、それに俳句が一句書いてあった。なんとかで「たぬきの昼寝かな」というのであった。たぬきのような顔にぴんと先生のようなひげをはやしてあった。このころからやはり昼寝の習慣があったと見える。
 高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸鶯横町《かみねぎしうぐいすよこちょう》に病床の正岡子規子をたずねた。その時、子規は、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運動をしたというような話をして聞かせた。実際子規と先生とは互いに畏敬《いけい》し合った最も親しい交友であったと思われる。しかし、先生に聞くと、時には「いったい、子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら、互いに許し合いなつかしがり合っている心持ちがよくわかるように思われるのであった。
 先生が洋行するので横浜《よこはま》へ見送りに行った。船はロイド社のプロイセン号であった。船の出るとき同行の芳賀《はが》さんと藤代《ふじしろ》さんは帽子を振って見送りの人々に景気のいい挨拶《あいさつ》を送っているのに、先生だけは一人少しはなれた舷側《げんそく》にもたれて身動きもしないでじっと波止場《はとば》を見おろしていた。船が動き出すと同時に、奥さんが顔にハンケチを当てたのを見た。「秋風の一人を吹くや海の上」という句をはがきに書いて神戸《こうべ》からよこされた。
 先生の留学中に自分は病気になって一年休学し、郷
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