て二三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本《くまもと》へ着くなり何より先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行った時に返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二三の句の頭に○や○○が付いていた。それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二三度も先生の家へ通《かよ》ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井《うちつぼい》に移っていた。立田山麓《たつたさんろく》の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。東向きの、屋根のない門をはいって突き当たりの玄関の靴脱《くつぬ》ぎ石は、横降りの雨にぬれるような状態であったような気がする。雨の日など泥《どろ》まみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二|室《へや》が共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣《けんにんじがき》の向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。この六畳が普通の応接間で、八畳が居間兼書斎であったらしい。「朝顔や手ぬぐい掛けにはい上る」という先生の句があったと思う。その手ぬぐい掛けが六畳の縁側にかかっていた。
 先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者《いなかもの》の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅《くずもち》のようなものを、先生が好きだと見えてよく呼ばれたものである。自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規《まさおかしき》の所へ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が「日本」新聞第一ページ最下段左すみの俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをしてその新聞を切り抜いては紙袋の中にたくわえるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング