》」以後には橋口五葉《はしぐちごよう》氏や大塚楠緒子《おおつかなおこ》女史などとも絵はがきの交換があったようである。象牙のブックナイフはその後先端が少し欠けたのを、自分が小刀で削って形を直してあげたこともあった。時代をつけると言ってしょっちゅう頬《ほお》や鼻へこすりつけるので脂《あぶら》が滲透《しんとう》して鼈甲色《べっこういろ》になっていた。書斎の壁にはなんとかいう黄檗《おうばく》の坊さんの書の半折《はんせつ》が掛けてあり、天狗《てんぐ》の羽団扇《はうちわ》のようなものが座右に置いてあった事もあった。セピアのインキで細かく書いたノートがいつも机上にあった。鈴木三重吉《すずきみえきち》君自画の横顔の影法師が壁にはってあったこともある。だれかからもらったキュラソーのびんの形と色を愛しながら、これは杉《すぎ》の葉のにおいをつけた酒だよと言って飲まされたことを思い出すのである。草色の羊羹《ようかん》が好きであり、レストーランへいっしょに行くと、青豆のスープはあるかと聞くのが常であった。
「吾輩《わがはい》は猫である」で先生は一足飛びに有名になってしまった。ホトトギス関係の人々の文章会が時々先生の宅《うち》で開かれるようになった。先生の「猫」のつづきを朗読するのはいつも高浜《たかはま》さんであったが、先生は時々はなはだきまりの悪そうな顔をして、かたくなって朗読を聞いていたこともあったようである。
 自分が学校で古いフィロソフィカル・マガジンを見ていたらレヴェレンド・ハウトンという人の「首つりの力学」を論じた珍しい論文が見つかったので先生に報告したら、それはおもしろいから見せろというので学校から借りて来て用立てた。それが「猫《ねこ》」の寒月《かんげつ》君の講演になって現われている。高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養をもっていたのである。文学者には異例であろうと思う。
 高浜、坂本《さかもと》、寒川《さむかわ》諸氏と先生と自分とで神田連雀町《かんだれんじゃくちょう》の鶏肉屋《とりにくや》へ昼飯を食いに行った時、須田町《すだちょう》へんを歩きながら寒川氏が話した、ある変わり者の新聞記者の身投げの場面がやはり「猫《ねこ》」の一節に寒月君の行跡の一つとして現われているのである。
 上野《うえの》の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の
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