あると言われる。原子電子の存在を仮定する事によって物理界の現象が遺憾なく説明し得られるからこれらが物理的実在であると主張するならば、雷神の存在を仮定する事によって雷電風雨の現象を説明するのとどこがちがうかという疑問が出るであろう。もっとも、これには明らかな相違の点がある事はここで改まって言うまでもないが、しかしまた共通なところもかなりにある事は争われない。ともかくもこの二つのものの比較はわれわれの科学なるものの本質に関する省察の一つの方面を示唆する。
 雷電の怪物が分解して一半は科学のほうへ入り一半は宗教のほうへ走って行った。すべての怪異も同様である。前者は集積し凝縮し電子となりプロトーンとなり、後者は一つにかたまり合って全能の神様になり天地の大道となった。そうして両者ともに人間の創作であり芸術である。流派がちがうだけである。
 それゆえに化け物の歴史は人間文化の一面の歴史であり、時と場所との環境の変化がこれに如実に反映している。鎌倉《かまくら》時代の化け物と江戸時代の化け物を比較し、江戸の化け物とロンドンの化け物を比較してみればこの事はよくわかる。
 前年だれか八頭の大蛇《だいじゃ》
前へ 次へ
全23ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング