あると言われる。原子電子の存在を仮定する事によって物理界の現象が遺憾なく説明し得られるからこれらが物理的実在であると主張するならば、雷神の存在を仮定する事によって雷電風雨の現象を説明するのとどこがちがうかという疑問が出るであろう。もっとも、これには明らかな相違の点がある事はここで改まって言うまでもないが、しかしまた共通なところもかなりにある事は争われない。ともかくもこの二つのものの比較はわれわれの科学なるものの本質に関する省察の一つの方面を示唆する。
 雷電の怪物が分解して一半は科学のほうへ入り一半は宗教のほうへ走って行った。すべての怪異も同様である。前者は集積し凝縮し電子となりプロトーンとなり、後者は一つにかたまり合って全能の神様になり天地の大道となった。そうして両者ともに人間の創作であり芸術である。流派がちがうだけである。
 それゆえに化け物の歴史は人間文化の一面の歴史であり、時と場所との環境の変化がこれに如実に反映している。鎌倉《かまくら》時代の化け物と江戸時代の化け物を比較し、江戸の化け物とロンドンの化け物を比較してみればこの事はよくわかる。
 前年だれか八頭の大蛇《だいじゃ》とヒドラのお化けとを比較した人があった。近ごろにはインドのヴィシヌとギリシアのポセイドンの関係を論じている学者もある。またガニミード神話の反映をガンダラのある彫刻に求めたある学者の考えでは、鷲《わし》がガルダに化けた事になっている。そしておもしろい事にはその彫刻に現わされたガルダの顔かたちが、わが国の天狗大和尚《てんぐだいおしょう》の顔によほど似たところがあり、また一方ではジャヴァのある魔神によく似ている。またわれわれの子供の時からおなじみの「赤鬼」の顔がジャヴァ、インド、東トルキスタンからギリシアへかけて、いろいろの名前と表情とをもって横行している。また大江山《おおえやま》の酒顛童子《しゅてんどうじ》の話とよく似た話がシナにもあるそうであるが、またこの話はユリシースのサイクロップス退治の話とよほど似たところがある。のみならずこのシュテンドウシがアラビアから来たマレイ語で「恐ろしき悪魔」という意味の言葉に似ており、もう一つ脱線すると源頼光の音読がヘラクレースとどこか似通ってたり、もちろん暗合として一笑に付すればそれまでであるが、さればと言って暗合であるという科学的証明もむつかしいような
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