音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薪《まき》を割る男

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)病気|平癒《へいゆ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和七年十一月、キネマ旬報)
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 この音楽的映画の序曲は「パリのめざめ」の表題楽で始まる。まず夜明けのセーヌの川岸が現われる。人通りはなくて朝霧にぬれたベンチが横たわり、遠くにノートルダームの双生塔がぼんやり見える。眠りのまださめぬ裏町へだれか一人自転車を乗り込んで来て、舗道の上になんだか棒のようなものを投げ出す。その音で長い一夜の沈黙が破られる。この音からつるはしのようなもので薪《まき》を割る男が呼び出される。軒下に眠るルンペンのいびきの音が伴奏を始める。家の裏戸が明いて早起きのおかみさんが掃除《そうじ》を始める、その箒《ほうき》の音がこれに和する。この三つの音が次第に調子を早める。高角度に写された煙突から朝餉《あさげ》の煙がもくもくと上がり始めると、あちらこちらの窓が明いて、晴れやかな娘の顔なども見える。屋上ではせんたく物を朝風に翻すおかみさんたちの群れもある。これらの画像の連続の間に、町の雑音の音楽はアクセレランドー、クレッセンドーで進行して行って、かくして一人の巨人としての「パリ」が目をさましてあくびをする。これだけの序曲が終わると同時に第一幕モーリス住み家の場が映し出されるのである。この序曲はかなりおもしろく見られ聞かれる。試みに俳諧連句《はいかいれんく》にしてみると

[#ここから3字下げ]
朝霧やパリは眠りのまださめず
 河岸《かし》のベンチのぬれてやや寒
有明《ありあけ》の月に薪《たきぎ》を取り込んで
 あちらこちらに窓あける音
[#ここで字下げ終わり]

とでもいったような趣がある。
「イズンティット・ロマンティク」の歌の連続が次のような順序に現われる。始めはモーリスが店の三枚鏡の一枚一枚に映りながらこれを歌う。この歌が街頭へ飛び出して自動車のおやじから乗客の作曲家に伝染し、この男が汽車へ乗ったおかげで同乗の兵隊に乗り移る。兵隊が行軍している途中からこの歌の魂がピーターパンの幽霊のような姿に移って横にけし飛んだと思うと、やがて流浪の民の夜営のたき火のかたわらにかなでられるヴァイオリンの弦のしらべに変わる。この音の流れて行く末にシャトーのバルコニーが現われて夢見るような姫君のやるせない歌の中にこの同じ主題が繰り返さるる。そうして最後のリフレーンで「イズンティット・ロマーン」まで歌った最後の「ティック」の代わりに、バルコンの下から忍びよるド・サヴィニャク伯爵の梯子《はしご》が石欄に触れる「ティック」の音を置き換えてある。ばかげているようであるが、この音で夢の世界から現実の世界へ観客を呼び返す役目をつとめさせているのである。
 公爵のシャトーの中のかび臭い陰気な雰囲気《ふんいき》を描くためにいろいろな道具が使われているうちに、姫君の伯母《おば》三人のオールドミスが姫君の病気|平癒《へいゆ》を祈る場面がある。それが巫女《みこ》の魔法を修する光景に形どって映写されているようであるが、ここの伴奏がこれにふさわしい凄惨《せいさん》の気を帯びているように思う。哀れな姫君の寝姿がピアニシモで消えると同時に、グヮーッとスフォルザンドーで朗らかなパリの騒音を暗示する音楽が大波のようにわき上がり、スクリーンにはパリの町の全景が映出される。ここの気分の急角度の転換もよくできている。
 モーリスがシャトーの玄関をはいってから、人けのない広間をうろつきまた駆け回る場面の伴奏も抑揚変化が割合によくできていて人を飽きさせない。
 医者が姫君を診察するとき、心臓の鼓動をかたどるチンパニの音、脈搏《みゃくはく》を擬する弦楽器のピッチカットもそんなにわざとらしくない。
 モーリスの出現によって陰気なシャトーの空気の中に急に一道の明るい光のさし込むのを象徴するように、「ミミーの歌」の一連の連続が插入《そうにゅう》されてインターリュードの形をなしている。むつかしやの苦虫《にがむし》の公爵が寝床の中でこの歌を始める。これがヴァレンティーヌ夫人、ド・ヴァレーズ伯爵、ド・サヴィニャク伯爵へと伝播《でんぱ》する。最後の伯爵のガス排出の音からふざけ半分のホルンの一声が呼び出され、このラッパが鹿狩《しかが》りのラッパに転換して爽快《そうかい》な狩り場のシーンに推移するのである。あばれ馬のあばれ方は愉快であるが、鹿の走り方は少しおかしい。あれは追わるる鹿ではない。モーリスが馬と「話し合いで別れて」鹿と友だちになっているところは傑作である。「静かにお帰りください」で引き上
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