一つの思考実験
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)椅子《いす》やテーブルが

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)邪教|淫祠《いんし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正十一年五月、中央公論)
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 私は今の世の人間が自覚的あるいはむしろ多くは無自覚的に感ずるいろいろの不幸や不安の原因のかなり大きな部分が、「新聞」というものの存在と直接関係をもっているように思う。あるいは新聞の存在を余儀なくし、新聞の内容を供給している現代文化そのものがこれらの原因になっていると言ったほうが妥当かもしれないが、それはいずれにしても、私はあらゆる日刊新聞を全廃する事によって、この世の中がもう少し住みごこちのいいものになるだろうと思っている。
 新聞を全廃したらさだめて不便な事であろうと一応は考えられる。その不便を感ずる種類や程度はもちろん人々の位地や職業によっていろいろであろうが、不便ということに異議はなさそうである。しかしそれらの不便がどれだけ根本的な性質のものでどれだけ我慢のしきれない種類のものかという事は、少しゆっくり考えてみなければよくわからないと思う。われわれの日常生活に必要欠くべからざるものと通例思われている器具調度の類でも、実はそれを全廃してしまって少しもさしつかえのないものはいくらでもある。たとえば、西洋ならばどんな簡易生活でも、こればかりは必要と思われている椅子《いす》やテーブルがなくても決してさしつかえない事は多数の日本人に明瞭《めいりょう》である。また昔の日本の女になくてかなわなかった髪飾りや帯などは外国の女には無用の長物である。
 新聞を必要とするように今のわれわれの生活を導いたものは新聞自身であるかもしれないとすると、新聞が必要がられるという事実だけでは決して新聞の本質的必要を証明する材料にはならない。
 新聞の記事はその日その日の出来事をできるだけ迅速に報知する事をおもな目的としている。その当然の結果として肝心の正確という事が常に犠牲にされがちである事はだれもよく知るとおりである。しかしこの一事だけでも新聞というものが現代の人心に与える影響はなかなか軽少なものではない。ほかの事はすべてさしおいても、「おそくとも確実に」というあらゆる「真」の探究者に最も必要な心持ちをすべての人からだんだんに消散させようとするような傾向のあるのはいかんともしがたい。もっとも大概の人間には真に対する潔癖はあるから、そういう不正確な記事はたまたまその潔癖を刺激してかえってそれを亢進《こうしん》させるような効果がある場合があるかもそれはわからない。また大多数の人は始めから新聞記事の正確さの「程度」をのみこんでいて、従って新聞の与える知識には、いつでもある安全係数《セーフティファクトル》をかけた上で利用するから、あまりたいした弊害はないと考えられるかもしれない。有数ないい新聞ならば実際そうかもしれない。しかし正確でなくてもいいからできるだけ早く知るということがどうして、またどこまで必要であるかという事がいちばんの先決問題になる。

 海外に起こった外交政治経済に関する電報は重要な新聞記事の一つである。こういうものがあらゆる階級の人に興味があるという事は望まるべき事でもあり、またそれが事実であるとしたところで、これらの報知を一日でも早く知る必要をほんとうに痛切に感ずる人が国民の中で何人あるかという事を考えてみなければならない。
 次には内国の政治経済産業方面に関する記事でも、大多数の国民が一日を争うて知らなければならないものがどのくらいのパーセントを占めているかを考えてみなければならない。
 全くとらわれない頭で冷静に考えてみた時に、これらの記事の大部分は、多数の「善良な国民」がたとえ一か月くらいおくれて知っても少しの不都合のないものであると私は考える。
 ただ国民の中でおそらくきわめて少数なある種のデマゴーグ的政治家、あるいは投機的の事業にたずさわるいわゆる「実業家」のうちの一部の人たちは、一日でも一時間でも他人より早くこれらの記事を知りたいと思うだろう。そういう人々の便宜を計るという事がかりにいいとしたところで、そういう人はよしや新聞を全廃してもおそらく少しも困る事はあるまい。それぞれ自分で適当な通知機関を設けて知るだけの事は知らなければ承知しないに相違ない。これに反して大多数の政党員ないし政治に興味をもつ一般人、それからまじめな商業や産業に従事している人たちにとってたとえば仏国の大統領が代わったとかニューヨークの株が下がったとか、あるいは北海道で首相が演説したとか議会で甲某が乙某とどんなけんかをしたとかいう事を、二週間あるいは一月おそく知ったためにどれだけの損害があるかが私にはよほど疑わしい。
 これらの記事がすべて正確であると仮定した場合でさえ、その必要が疑わしいくらいならば、記事が不正確である場合にはどうなるだろう。
 こう言ってもおそらく私の言わんと欲するところは容易に通じないだろうと思う。それでくどいようでも同じ事を繰り返す事を許してもらいたい。
 新聞を最も必要と感ずる人の種類を考えてみると、それは、広義における投機者であり、また一種特別な意味でのブールジョアである。いい意味での善良な国民、穏和な意味でのプロレタリアは、実際めいめいのまじめな仕事に真剣に従事している限り、拙速主義の疑わしい知識に飛びついて朝夕心を騒がせ気をいら立てる必要は毛頭ないのである。
 あらゆる先入観念を捨て、あらゆる枝葉の利害を除いて最も本質的にこの問題を考えてみたならば、私がここに言っていることが必ずしも無稽《むけい》なものでない事が了解されはしないかと思う。
 次に考えなければならないのはいわゆる社会欄である。この欄の記事の内容はかなり雑多な方面にわたっている。その中でも季節に関する年中行事の報道やあるいは近き未来に関する各種の予告などこういった種類のものを日々新聞で承知するという事は決して悪い事ではない。しかし今日実際に存在する新聞の社会欄で最も大きな部分を占めているのはこの種の事がらではない。この種の記事はかえってどこかのすみに小さな活字で出ている。これに反して驚くべく大きな見出しで出ているものの内で、知名の人の死に関する詳細な記事とか、外国から来た貴賓の動静とかはまだいいとしたところで、それらよりももっと今の新聞の特色として目立っているものは、この世の中にありとあらゆる醜悪な「罪」に関する詳細の記事である。この種の事実をわれわれが一日も早くしかも誤謬《ごびゅう》によってはなはだしく曲げゆがめられた形で知らなければならない必要がどこにあるか私にはわからないのである。
 これらの報道は多くの人々の好奇心を満足させ、いわゆるゴシップと名づけらるる階級の空談の話柄を供給する事は明らかであるが、そういう便宜や享楽と、この種の記事が一般読者の心に与える悪い影響とを天秤《てんびん》にかけてみた時に、どちらが重いか軽いかという事は少し考えてみればだれにもわかる事ではあるまいか。
 少し事がらがわき道へはいるが、新聞の社会記事ほど人間の心理を無視したものはまれである。もっともいわゆる「講談」のごときものも、かなり心理をゆがめたり誇張したりしてはいるが、ゆがめ方もあれまで徹底すればかえって害はなくなる。そうしてうそで固めたばかばかしい饒舌《じょうぜつ》の中におのずからまた何物かほんとうのものに触れているところがないでもない。しかるに普通の社会記事となって現われた、たとえば人殺しやけんかの表現が、ひとたび関係者の心理に触れる段になると、それらはもう決してわれわれ人間の心理でなくて全く違った「存在《ビーイング》」の心理になってしまっている。そしてそれがいかにももっともらしくほんとうらしく提供されているのである。
 これはしかし記者自身が人間の心理を理解しないのではない、ただいわゆる社会記事の「定型」というものが、各種の便宜的必要からおのずからきまってしまって、それによらないわけには行かないためだという説明を、そのほうの事情に通じた人から聞いた事もある。
 罪悪の心理がもしほんとうに科学的な正確さをもって書き表わされていれば、それは読者にとってはかなり有益であり、そうしてそういう罪悪を予防し減少するような効果を生じるかもしれない。これに反して罪悪の外側のゆがんだ輪郭がいたずらに読者の病的な好奇心を刺激し、ややもすれば「罪の享楽」を暗示するだけであったらその影響ははたしてどうであろう。
 罪悪と反対な人間の善行に関する記事もまれには見受けるが、それがひとたび新聞記事となって現われると不思議にその善《よ》い事の「中味」が抜けてしまって、妙にいやな気持ちの悪い「輪郭」だけになっている場合がかなり多いように思われる。そういう種類の記事を読んでいて、人事《ひとごと》ながらもひとりで顔の赤くなる場合がありはしないか。
 しかしこういう不満は今ここで論じている問題とは別問題である。
 あらゆる記事がこれらの欠点を脱却して非常に理想的にできたとした上で、それをわれわれが日刊新聞によって朝夕に知る事がどれだけ必要かというのが現在の問題である。それが必要でないという事になれば、ましてや不完全不真実な記事を毎日あわただしく読む事の価値ははたしてどうなるであろう。

 私がこういう事をいうのは畢竟《ひっきょう》あまりに新聞記事というものの価値に重きをおき過ぎるからの事だという人もあろう。
 なるほど新聞記事をきわめて軽くしか見ていない人は事実上多数にあるかもしれない。しかし、そういうふうにして、元来決して軽く見るべきはずでない、あらゆる意味で重大な多くの事がらを、朝夕に軽々しく見すごすような習慣を養うという事自身に現代の思想上の欠陥の一つの大きな原因があるのではあるまいか。そのような習慣は知らず知らずわれわれを取りかえしのつかない堕落の淵《ふち》に導いているのではあるまいか。
 ただ一つだけでも充分な深い思索に値するだけの内容をもった事がらが、数限りもなくただ万華鏡裏の影像のように瞬間的の印象しかとどめない。そのようにしてわれわれの網膜は疲れ麻痺《まひ》してしまってその瞬時の影像すら明瞭《めいりょう》に正確に認めることができなくなってしまうのではあるまいか。
 こういう習慣は物事に執着して徹底的にそれを追究するという能力をなしくずしに消磨《しょうま》させる。たとえばほんとうに有益なまとまった書物でも熟読しようというような熱心と気力を失わせるような弊がありはしまいか。
 このような考えから、私はいっその事日刊新聞というものを全廃したらよくはないかという事につい考え及んだわけである。今のところそれは容易に実行される見込みのない事である。しかし少なくもそういう事を一つの思考実験として考えてみる事はなんのさしつかえもなく、またあながち無意味な事でもないかもしれない。
 私は現代のあらゆる忙しい人たち、一日も新聞を欠かし得ないような人たちが、試みに寸暇をさいてこういう思考実験をやってみるという事は、そういう人たちにとって非常にいい事でありはしないか、また多数の人がそれを試みる事によって前に言ったような新聞の悪い影響がいくぶんでも薄められはしないだろうかと思ってみた。
 私はそういう実験を他人にすすめたいためにまず自身でそれを試みてみようと思い立った。その実験は未了でその結果は未成品に過ぎないが、それにもかかわらずその大要をしるしてみたいと思うのである。
 実験を始める前に私はまず自分の過去の経験を捜してみた。
 いつだったか、印刷工がストライキをやって東京じゅうの新聞が休んだ事があった。あの時に私はどんな気持ちがしたかを思いかえしてみた。あまりはっきりと思い出せないが、少なくも私はあの時そんなにひどく迷惑を感じたような記憶がない。もちろん毎朝見ているものを見ないという一種の手持ち
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