種の予告などこういった種類のものを日々新聞で承知するという事は決して悪い事ではない。しかし今日実際に存在する新聞の社会欄で最も大きな部分を占めているのはこの種の事がらではない。この種の記事はかえってどこかのすみに小さな活字で出ている。これに反して驚くべく大きな見出しで出ているものの内で、知名の人の死に関する詳細な記事とか、外国から来た貴賓の動静とかはまだいいとしたところで、それらよりももっと今の新聞の特色として目立っているものは、この世の中にありとあらゆる醜悪な「罪」に関する詳細の記事である。この種の事実をわれわれが一日も早くしかも誤謬《ごびゅう》によってはなはだしく曲げゆがめられた形で知らなければならない必要がどこにあるか私にはわからないのである。
これらの報道は多くの人々の好奇心を満足させ、いわゆるゴシップと名づけらるる階級の空談の話柄を供給する事は明らかであるが、そういう便宜や享楽と、この種の記事が一般読者の心に与える悪い影響とを天秤《てんびん》にかけてみた時に、どちらが重いか軽いかという事は少し考えてみればだれにもわかる事ではあるまいか。
少し事がらがわき道へはいるが、新聞
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