きわめて軽くしか見ていない人は事実上多数にあるかもしれない。しかし、そういうふうにして、元来決して軽く見るべきはずでない、あらゆる意味で重大な多くの事がらを、朝夕に軽々しく見すごすような習慣を養うという事自身に現代の思想上の欠陥の一つの大きな原因があるのではあるまいか。そのような習慣は知らず知らずわれわれを取りかえしのつかない堕落の淵《ふち》に導いているのではあるまいか。
ただ一つだけでも充分な深い思索に値するだけの内容をもった事がらが、数限りもなくただ万華鏡裏の影像のように瞬間的の印象しかとどめない。そのようにしてわれわれの網膜は疲れ麻痺《まひ》してしまってその瞬時の影像すら明瞭《めいりょう》に正確に認めることができなくなってしまうのではあるまいか。
こういう習慣は物事に執着して徹底的にそれを追究するという能力をなしくずしに消磨《しょうま》させる。たとえばほんとうに有益なまとまった書物でも熟読しようというような熱心と気力を失わせるような弊がありはしまいか。
このような考えから、私はいっその事日刊新聞というものを全廃したらよくはないかという事につい考え及んだわけである。今のところそれは容易に実行される見込みのない事である。しかし少なくもそういう事を一つの思考実験として考えてみる事はなんのさしつかえもなく、またあながち無意味な事でもないかもしれない。
私は現代のあらゆる忙しい人たち、一日も新聞を欠かし得ないような人たちが、試みに寸暇をさいてこういう思考実験をやってみるという事は、そういう人たちにとって非常にいい事でありはしないか、また多数の人がそれを試みる事によって前に言ったような新聞の悪い影響がいくぶんでも薄められはしないだろうかと思ってみた。
私はそういう実験を他人にすすめたいためにまず自身でそれを試みてみようと思い立った。その実験は未了でその結果は未成品に過ぎないが、それにもかかわらずその大要をしるしてみたいと思うのである。
実験を始める前に私はまず自分の過去の経験を捜してみた。
いつだったか、印刷工がストライキをやって東京じゅうの新聞が休んだ事があった。あの時に私はどんな気持ちがしたかを思いかえしてみた。あまりはっきりと思い出せないが、少なくも私はあの時そんなにひどく迷惑を感じたような記憶がない。もちろん毎朝見ているものを見ないという一種の手持ちぶさたな感じはあったに相違ないが、それと同時になんだか急に世の中がのんびりしたような気持ちがないでもなかったように思う。もっとも自分のような閑人《ひまじん》はおそらく除外例かもしれないから、まず大多数の人はかなり迷惑を感じたものと見たほうが妥当には相違ない。
まずだれよりもいちばん迷惑を感じたのは新聞社自身であったろうが、ここではそれは問題に入れるわけには行かない。それと前述の投機者階級を除いたその以外に迷惑したのはだれだったろうと考えてみた。
続きものの小説が肝心のところで中絶したために不平であった人もあろうし、毎朝の仕事のようにしてよんでいた演芸風聞録が読めないのでなんだか顔でも洗いそこなったような気持ちのする閑人《ひまじん》もあったろう。
こういう善良な罪のない不満に対しては同情しないわけにはいかない。しかし現在の実験を遂行する場合にこの物足りなさを補うべき代用物はいくらでも考え得られる。それにはいわゆる新聞小説よりももっとおもしろくて上等でかつ有益な小説もあろうし、風聞録の代わりになるもっとまとまった読み物もあるだろう。そういう書物を毎日新聞を読む時間にひと切りずつ読む事にしたらどうであろう。その積算的効果はかなりなものになりはしまいか。
まとまったものを少しずつ小切って読んで行って、そうして前後の連絡を失わないようにするという事は必ずしも困難とは限らない。事がらによってはかえって一時に詰め込むよりも適当に小切ったほうが理解にも記憶にも有効であるという事は実験心理学者の認めるところである。私の知っている範囲でも、毎日電車に乗っている間だけロシア語を稽古《けいこ》したり、カントを読んだりしてそれで相当な効果をあげた人さえある。しかしかりにそういう人が例外であるとしても、ともかくも毎朝新聞を読むのといいまとまった書物を読むのと比べてどちらが頭脳の足しになるかという事は、はじめから議論にならないような気がする。
それでも多くの人の中には新聞なら毎日読む気になるが書物と名のつくものは肩が凝ってとても読む気になれないという人があるかもしれない。それはおそらく習慣の養成でどうでもなるはずのものだとは思うが、どうしても書物のきらいな人があるとすれば、そういう人にはまたそれなりの新聞の代わりになるものはいくらでも考え得られる。
謡の好きな人はその時間に一番ずつう
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